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【北朝鮮非核化問題】惨敗の歴史 – 1994年米朝枠組み合意

北朝鮮核開発 政治
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北朝鮮の核開発疑惑の始まり

 北朝鮮が核開発に着手したのは、朝鮮戦争(1950〜1953年)の終結後まもなくとされる。

 冷戦下の1956年、ソビエト連邦はモスクワ近郊に「合同核研究所(UINR)」を設立。北朝鮮は同研究所に研究員を派遣し、以降、ソ連の支援のもとで核関連の研究を進めた。1965年には、ソ連から研究用小型原子炉を導入している。

 この時期から北朝鮮は、秘密裏に核開発を本格化させたと見られている。

 1968年、核拡散防止条約(NPT)が発効したが、北朝鮮はこれに加盟せず、国際的な核管理体制の外に身を置いた。

 核開発疑惑が本格化したのは1982年。米国の偵察衛星が寧辺(ヨンビョン)に新たな原子炉の建設を確認したことで、核開発への懸念が現実味を帯びた。それ以前にも断片的な疑惑はあったが、今回の発見により、核兵器開発への具体的な動きが国際的に注目されるようになった。

 原子炉が稼働すると使用済み核燃料が発生する。この燃料を再処理することで、核兵器の原料であるプルトニウムが抽出可能となる。つまり、原子炉の建設と稼働は、核兵器製造の第一段階を意味していた。

 事態を重く見たアメリカ政府は、ソ連を通じて北朝鮮にNPT加盟を要請。ソ連もこれに同調し、1985年、北朝鮮はようやくNPTに加盟し、国際原子力機関(IAEA)の監視下に置かれることとなった。

 しかし、北朝鮮はその後もIAEAの査察を拒否し続けた。これは明らかなNPT違反だったが、当時のNPTには罰則規定がなかったため、北朝鮮は強硬姿勢を崩さなかった。

 さらに北朝鮮は、査察の受け入れ条件として「在韓米軍の核兵器撤去」や「アメリカの対北朝鮮敵視政策の見直し」を要求し、核問題を外交交渉のカードとして使い始めた。

 こうして、北朝鮮は「自ら違反行動を起こし、その譲歩の見返りに利益を引き出す」という、いわゆる瀬戸際外交を本格的に展開し始めることになる。

NPT加盟と“見返り”外交の始動

 1985年のNPT加盟により、北朝鮮は国際的には合法的に原子炉を稼働できる立場を得た。その見返りとして、ソ連から4基の軽水炉提供の約束を取り付け、両国間では原子力発電所建設に関する経済・技術協力協定も結ばれた。

 この間、北朝鮮はNPT加盟国として、合法的に原子力技術や設備へのアクセスを得る一方で、IAEAの査察を拒否するなど、国際社会のルールを一方的に無視する姿勢を続けた。

 そして1992年、北朝鮮がNPT加盟後も密かに核兵器開発を進めていた事実が明るみに出ることになる。

1992年 ― 核開発疑惑の表面化

 1989年、冷戦が終結し、朝鮮半島の緊張も一時的に緩和へと向かった。
 1991年には、在韓米軍が朝鮮半島から戦術核兵器を撤去。同年12月には、北朝鮮の金日成主席と韓国の盧泰愚大統領が「朝鮮半島非核化共同宣言」に署名し、南北双方が核兵器の保有・開発・導入を行わないことを確認した。

 北朝鮮が長年主張していた「在韓米軍による核の脅威」が解消されたことを受け、ついに翌1992年、北朝鮮はIAEAによる核査察の受け入れに同意した。

 しかし、IAEAの調査により、北朝鮮の寧辺(ヨンビョン)において過去にプルトニウムが生産されていた疑いが浮上。IAEAが再査察を要求すると、北朝鮮はこれに反発し、わずか1か月後にはIAEAからの脱退を宣言した。

 これにより、北朝鮮はNPT加盟を表向きのポーズとして利用し、実際には当初から使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出し、核兵器開発を進めていた可能性が明らかになった。

1994年 ― 米朝枠組み合意の成立

 この状況に対して、当時のクリントン政権は軍事的対応を視野に入れ、北朝鮮に対する空爆も検討されていた。しかし、戦争の勃発を懸念したジミー・カーター元大統領が1994年に北朝鮮を訪問し、金日成主席と会談。緊張緩和に向けた合意形成を仲介した。

 その結果、米朝間で「米朝枠組み合意」が成立した。主な内容は以下の通りである。

  • 北朝鮮は寧辺の原子炉の運転を凍結し、新たな核開発を停止する。
  • アメリカは、核兵器転用が困難な軽水炉を北朝鮮に建設することを約束。その建設費用およそ40億ドルは、主に韓国が負担することになった。
  • 軽水炉建設が完了するまでの代替エネルギーとして、年間50万トンの重油を北朝鮮に供給。費用はアメリカ、日本、韓国をはじめEU諸国が負担する。
  • アメリカは北朝鮮に軍事的脅威を与えないことを約束。北朝鮮は、NPT体制への残留とIAEAによる監視・査察の受け入れを継続。

 この合意を実行するための機関として「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)」が設立され、日本はその設立費用として10億ドルを拠出した。

 結果として、北朝鮮は核兵器開発の一時停止と引き換えに、多額の経済支援やエネルギー支援を獲得することに成功した。これは、北朝鮮の瀬戸際外交が最大限の効果を発揮した例と言える。以後、北朝鮮はこの手法に自信を深め、瀬戸際外交を一層活発化させていくことになる。

米朝枠組み合意の破綻 ― ウラン濃縮の発覚

 2002年、金正日統治下で北朝鮮がウラン濃縮方式で核兵器開発を行っていることが発覚。
 KEDOとIAEAの監視で、プルトニウム型の原子爆弾開発は凍結されたが、その一方で、今度はウラン型の原子爆弾開発に着手していた。

 プルトニウムの生産は、原子炉の稼働が必要で、原子炉が監視下に置かれているため不可能だった。だが、ウラン濃縮は小規模施設で行うこと可能なため、北朝鮮は秘密裏に地下施設でウランの生産を行っていた。
 濃縮技術や関連装置は、パキスタンの核科学者アブドゥル・カディール・カーンのネットワークから供与されたとされている。

 アメリカがこの事実を指摘すると、北朝鮮は再びIAEA査察官を国外追放。直後にIAEAからの脱退を宣言し、さらに凍結していた原子炉の再稼働とプルトニウムの再生産に踏み切った。

条約を戦術として扱う北朝鮮の外交姿勢

 虚偽が露見しても、北朝鮮は一貫して開き直りの姿勢を取り続けてきた。そこには、国家間の条約や合意を軽視し、自らの都合で反故にするという、「朝鮮外交」に特有の態度が如実に表れている。

 北朝鮮は、国際条約や国家間合意を締結しても、それを順守しようとする意志を最初から持たない。むしろ、合意破棄の可能性をちらつかせることで、外交交渉を有利に進めようとする。このように、合意そのものを交渉手段として操作する発想が、北朝鮮の外交戦略の根幹にある。

 北朝鮮にとって、国際条約や国家間合意の趣旨などは、まったく意味がない。体制保障だけが最大の政治目標である北朝鮮にとっては、条約や合意は体制存続のための交渉カードとしてのみ捉えられている。
 その結果、その場その場で都合よく利用だけする態度が継続する。相手からの見返りは要求するが、自らの責務は果たさない。自らが不利になればいとも簡単に反故にする。

 北朝鮮は、相手国からの譲歩や支援を引き出すことを目的に、地域の安全保障を人質に取るかのような瀬戸際外交を繰り返している。軍事的緊張を意図的に高め、東アジア全体の安定を揺るがすことで、他国に譲歩を強いるという極めて危険な戦術だ。

 さらに北朝鮮は自らが国際的に孤立したり経済制裁を課されることに対して全く恐れていない。それは北朝鮮国内において、金一族の支配体制が盤石だからだ。経済制裁によって疲弊するのは北朝鮮の国民であって金一族の政権ではない。したがって、合意違反や条約破棄が国際的批判を浴びようとも、それを顧みる様子はない。

 国際社会にとって北朝鮮とは、「約束」というものがまったく成り立たない関係性にある。

 この「約束」が成り立たない関係性に、国際社会はさらに振り回されていくことになる。

 つづく。。。

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