追い出し部屋 – あなたの隣にいる日本のアイヒマン

追い出し部屋とは何か?

 追い出し部屋――

 それは、現代日本の怪談話である。夜な夜な、日本の一流企業と言われる大企業の一室から、泣き声が聞こえてくるという。。。それも、大の大人の、おっさんの泣き声だ。。。

 いちま~い、にま~い、さんま~い、よんま~い。。。
 ノルマに一枚足りな~い。。。

夜通し契約書の枚数を数えているという。。。

 一応、日本も91年ぐらいまでは、景気が良かった。だが、そこからは停滞。失われた10年などと言われているが、とうに20年以上が過ぎた。そんなものすぐに「失われた30年」となっていくだろう。現にもう2015年だ。

 この長期デフレ経済の中で、企業が生産縮小を進めている。そうなると問題は、好景気時代に大量に雇った人員だ。過剰に抱えた労働者が経営を圧迫するようになる。今では、人員整理が喫緊の課題だ。だが、日本では経営理由による整理解雇の要件が極めて厳しく設定されている。
 よく指摘されることだが、日本は海外に比べて、労働市場の流動性が非常に低い。解雇もできない、転職市場も未熟、日本の労働人材は、流動性どころか、固形物と化している。本来なら、この労働市場の流動性を高めるための経済政策、社会政策が必要なのだが、日本の政治家が法整備をすることなどないのでそのままになっている。
 そこで、企業が始めたことが追い出し部屋だ。

 追い出し部屋という言葉は、1997年のソニーの人員解雇の報道がきっかけとなって、広まった。
 ソニーは、96年末から「セカンドキャリア支援」事業を立ち上げ、「キャリア開発室」なるものを設置した。これが俗に「追い出し部屋」と呼ばれるようになる。名目は、従業員に対する職業能力の向上支援、再就職支援だが、実際はただの人員整理が目的である。

 会社都合による整理解雇ができないため、強制的に従業員自ら自主退職するよう自主的に強制しなければならない。何を言ってるかって?自分でも分からん。

 キャリア開発室に異動が命じられると、そっからは実質的な仕事はなくなる。自主退職を迫るような心理的圧力が毎日のように続く。いろいろと報道されているが、そこでは、さまざまな陰湿な手段が採られていたようだ。

 もちろん、追い出し部屋に相当するような場を設置した企業は他にもたくさんある。

 報道されたものだけでも、ざっと拾ってみるとこんだけある。

・ソニー(1997年~2014年)
・セガ・エンタープライゼス(1999年)
・リコー(2011年)
・パナソニック(2013年)
・mixi(2013年)
・NEC(2013年)
・大和証券(2015年)
【追記】
・三越伊勢丹(2017年)←NEW!!
・森永乳業(2018年)←NEW!!
・東芝(2019年)←NEW!!

 閑職に追いやる、あるいは正反対に極端なノルマを課す、過剰な肉体労働を強いる、ひたすら無意味な作業を繰り返させる、自己批判自己反省文を一日中書かせる、等々。。。どの企業も追い出し部屋で行っていることは、どれも悪質だ。大の大人が、ほとんどイジメのようなことをやっている。
 当たり前だが、このような処遇は違法である。もちろん企業もそれはわかっている。だから、法的責任を後から問われないようにするためのさまざまな手法が次から次へと開発されては採用されていく。

 最初は、社内に「追い出し部屋」を設置し、そこへ異動の辞令を出すというのが一般的だったが、2010年前後から、より確実に法的責任を免れる方法として、子会社に出向させるという方法が広まっていった。汚れ仕事は子会社に。これで本社は、はれて潔白だ🤗

 法的規制が追い付かないうちに、こうした自主退社へ追い込む手法は、より巧妙で悪質なものへと変質していっている。違法な「追い出し」手段については、SNS上で数多く告発されているし、さまざまな報道もされているが、中には極めて陰惨で読んでいてとてもまともな人間のすることとは思えないものまである。ここでいちいち紹介する気にもなれないが、興味ある方は自分で調べてみてほしい。本当にこのようなことが名のある企業で行われているのかと耳を疑うようなものが大量に出てくる。

整理解雇の見直しを

 問題の根幹にあるのは、日本の解雇規制の厳しさだ。整理解雇の運用に関して、もう少し現実の経済状況に即した柔軟性のある制度設計がなされていたら、「追い出し部屋」のようなバカげた仕組みを作る必要はなかったはずだ。

 整理解雇自体は必ずしも負の側面ばかりがあるものではない。アメリカの労働市場を見ても分かるように、人材の流動性が高いことによって、業界全体の新陳代謝が高まり、生産性の向上に寄与する場合もある。解雇条件が厳しいということは、人材が非効率な場面に滞留しているということでもある。現状の厳しい解雇規制は、経済環境の変化に合わせて、人材が適材適所に配置されることを阻んでいる側面もある。

 少なくとも、追い出し部屋のような、なんの生産性もないものをつくり出す必要はなかった。追い出される側の精神的苦痛は言うに及ばず、追い出し業務に携わる側の心理的負担も相当なものだ。関わる従業員すべてが疲弊していくだけで、会社の発展に資するものは何一つない。ただ、人件費を削ったことで一時的に決算の見掛け上の数字が少し良くなるだけだろう。経営者と株主はそれでいいのかもしれないが。

解雇に対して不釣り合いな労力

 追い出し部屋の特に問題なところは、「たかが解雇」に対して、何の生産性にもつながらない無駄で膨大な労力を費やし、全く不釣り合いなほどの心理的負担を労働者に与えているという点だろう。

 追い出し部屋に追い込まれた人が、精神的苦痛に対して慰謝料を請求する裁判がいくつも起こされている。なかには、うつ病を発症したり、精神を病んだりして社会復帰ができなくなっている事例なども数多くある。これは、その会社だけでなく、社会全体にとっても多大な損失だ。労働力そのものが失われているからだ。

 しかし、あまり注目されていないが、追い出し部屋に従事した、「追い出す側」の心理的負担も相当なものがあったはずだ。追い出す「業務」を担当させられ、それに直接携わった者だって、フツーの人間だ。現場で実際にさまざまな嫌がらせを実行するにはそれなりの「覚悟」が必要であって、そんなに「フツーの人」が安易に出来るものとは思えない。
 だが、追い出しに携わった人間が、会社の命令によって非倫理的な業務に就かされ、精神的苦痛を被ったとして会社を訴えた事例は全く聞かない。なぜか?ほんとうは、追い出す側の業務に携わった人から、このような告発がもっとあってしかるべきはずだ。
 この点はもっと注目されてよいと思う。ここでは、この心理的問題にもう少し深く立ち入ってみたい。

あなたの隣のアイヒマン

 たとえば経営悪化が避けられない企業があったとしよう。そして、業務縮小以外に方法がないと判断したとしよう。そこで、経営陣が、自社の財務状況から人員整理が必要だと判断したとする。そして、整理解雇の実施を指示した。。。だが、これ自体は一つの経営判断であって、経営責任は問われるかもしれないが、解雇そのものが違法なわけではない。整理解雇の要件に従って粛々と実施すればいいだけだ。

 このようなことは資本主義社会では日常でいくらでも起こることで、何ら異常なことではない。だが、ここから、日本のシホンシュギは、独自の展開を遂げる。日本の今の労働基準法では、整理解雇がムズカシイ。そうなった時に、日本の経営者の発想は「追い出し部屋」を作って自主退職に追い込めばよい、となる。この発想は一体どっから出てきたのか?どんな精神構造していればそのような考えになるのか?

 労働者を人としてではなく数字としてしか見ていない経営者はとりあえず別にして、実際に追い出し業務に携わる人間は、どんな心理で、そのような非倫理的で不合理な命令を受け入れ、従ったのか?いくら会社の命令とはいえ、こうした陰湿な嫌がらせを行うような指示に素直に従うことができるのだろうか?
 仮にも同じ職場の同僚に対して、報道にあるような非倫理的な態度が果して本当に取れるのだろうか?実際にどのような心境でその業務に就き、遂行したのか、そうした証言がほとんど表に出てこない、というところにこそ、この問題の根深さがあるのではないか。

 会社勤めしている人は、何も悪人ではない。ごく普通の人がほとんどだろう。特に日本の社会人にはまじめな人が多いだろう。しかし、会社の命令としてであれば、非倫理的な行為にも容易に従ってしまい、誰も声を上げなくなってしまう。個人としては正常な判断ができるのに、会社の一員としては、順法精神が曖昧にあり、倫理的判断がおぼつかなくなる。会社としての立場で、あるいは全体の利益を代表して、などと言い出したとたんに、判断の基準がおかしくなっている。

 この心理状態を考える上で参考になる極めて重要な事例がある。それはナチス・ドイツの親衛隊でホロコーストに従事したアドルフ・アイヒマンの事例だ。
 彼は戦時中、ユダヤ人を強制収容所に移送する任務に就き、結果として、多くのユダヤ人を死に至らしめることになった。戦後、その罪に問われたアイヒマンは、裁判で「自分はただ命令に従っていただけです」と無罪を主張した。

 ここには人間の一つの重要な心理的傾向が示されている。
 人は、大きな組織の中では、その組織の権威にたやすく服従し、どんなに非合理的で非倫理的な命令にもやすやすと従ってしまう。組織に従属する度合いが深いほど、個人の責任主体がより曖昧になっていくのだ。
 次は自分かもしれないという疑心が蔓延している社会や同調圧力の強い集団のなかでは、ごく普通の人間がどんな非人道的な行いであっても比較的容易に実行してしまうことが、さまざまな心理実験から示されている。(興味のある方は、ミルグラム実験、あるいは、アイヒマンテストでググってみるとよい。)
 経営者の全く非人道的な方針に唯々諾々と従い、会社のためという名目の下、自分の部下や同僚を自殺や精神障害にまで追いこむようなことを平気で行ってしまう人々というのが、この今の日本にごく普通に存在していることを「追い出し部屋」は証明してしまった。日本のアイヒマンは、そこらじゅうにいるのだ。

 経営者はサイコパス気質だということを前の記事で少し触れたが、一般労働者も没主体的で倫理観も責任主体も曖昧な存在になっているのかもしれない。上はサイコパス、下はロボット。。。これが今の日本企業の実態なのだろうか。ミナサン、こんな国で働いててホント楽しいのかね?