書評(辛口増量)
中野剛志・藤井聡『日本破滅論』(2012)
TPP反対派の中野氏と公共事業推進派の藤井氏との対談本。
それにしても派手な題を付けたもんだ。
中野氏も藤井氏も共に立場、主張が非常にはっきりしているので分かりやすいのだが、その分、かなり強引な論理展開も目立つように思う。
経済政策はデフレ脱却に目標を絞るべきこと、TPPが外需の拡大にほとんど貢献しないことなどの論点は、説得力があり参考になる。だが、その一方、 外需に頼れない日本が取るべき方策として、公共事業を拡大すべき、という案には、首をかしげざるをえない点だらけ。。。だ。
かつての公共事業の意味
7、80年代までの公共事業は、産業政策と社会政策を含んだ総合的な観点から始まった、と一応は言える。都市に比べ遅れていた地方のインフラ整備だけでなく、また都市から地方へと所得再分配を行う機能も併せ持っていて景気刺激策、あるいは、社会保障的な意味合いが強かった。
しかし、ひとたび公共事業利権が出来上がってしまうと、際限なく利益誘導政治が展開されるようになる。地方における選挙は如何に公共事業予算を獲得できるかということが主眼になり、利権に与らない一般の民意は捻じ曲げられ、政策の融通が利かなくなる。
公共事業の問題点はさまざまに論じられているが、結局すべてはこの点に集約できる。問題の本質は非常に単純で、公共事業を実施する際、その政策的合理性をどのようにして担保することができるのか、という点に尽きている。
必要な公共事業
2011年の東北の震災以降、校舎や橋など老朽化した設備の補修、都市の防災対策が緊急の課題となった。また、少子高齢化やデフレの長期化で福祉事業や起業家支援、新規産業育成も重要性を増している。国や地方が今すぐにでも手をつけなくてはならないことはたくさんあり、これらに支出することも立派な公共事業だ。
だが、今の政治に、政策の優先順位を見極め、それに従って予算が配分されるという、極めて当たり前の仕組みが果して機能しているだろうか?
政府内で利益誘導が横行すると、既得権益を握っている業界団体に配慮した政策のみが通り、そのほかは無視されてしまう。そのため、既存の事業ほどますます有利になる。
公共事業は一般競争入札が原則だが、さまざまな除外規定があって、実際には指名競争入札及び随意契約が一般化している。その中で、利権構造が温存化されて、時代にそぐわない事業がいつまでも存続している。一度決めた計画は何があっても撤回されず、政策の転換は不可能で、現状を反映した新規事業は蔑ろにされる……これが、族議員主導の自民党政治で見てきた実態ではなかったか。
利権によって常に歪められる公共事業
社会福祉や防災に関する事業は昨今、極めて重要性を増しているにもかかわらず、何も進展することがない一方で、ダムや道路、新幹線など、既存の事業にはいまだに巨額の予算が配分される。
ちなみに、2012年(平成24年)に着工した整備新幹線の新函館~札幌間の工期は、何と24年だ。人ひとりの一生をこの事業だけで丸抱えできる長さだ。この整備新幹線とは、日本政府が1973年(昭和48年)に整備計画を決定した路線のことで、なんと40年近くも前の計画だ。地元の人間は必要というのかもしれないが、政策には優先度がある。果たして、今この時期に優先すべき事業なのか。それを検証するための仕組みすらまともに存在していないのが現状だ。
利権構造は、政策の転換を阻む要因になっている。一度決まれば二度と変えられない。現在では公共事業の都市から地方へといった所得分配効果も非常に薄れている。都市部でも失業率は増加しているし、何よりも非正規雇用の拡大で、都市部においても平均収入自体は著しく下がっている。そうした時代に、70年代型の地方大型ハコモノ事業ばかりが推進されているのだ。
地方で治水効果の不明なダムや採算の取れるあてのない新幹線や空港、人の集まる当てのない大学などが次から次へとつくられている。70年代から永遠と変わらない政策を40年以上続けている。
さて、本書の内容に戻ると。。。
現在のこのような実体の公共事業。。。これを正当化するために、藤井氏が述べている根拠とは、「GDPが上がる」というただそれだけ!!なのだ。
公共事業による景気浮揚論の誤り
巨額な予算をばらまけばGDPが上がる、というのは直感的には正しいかもしれない。公共投資には、乗数効果があり、GDPの拡大に寄与することが言われてきた。だが、近年では、巨額の公共投資は利子の上昇を招くだけというクラウディングアウトが指摘され、その経済効果が低減しているのではないかという懐疑的な見方が広がっている。
財政出動によって巨額の公共事業を行っても、失業率が改善しないという状況が80年代頃から先進各国で見られるようになってきた。いわゆるスタグフレーションである。
財政出動を中心とした政策の中で平成不況が20年以上続いたことや、長引くゼロ金利政策で、金利操作の幅がなくなっていることなどから、ケインズ政策に基づいた経済政策は支持を失い始めている。近年のアメリカの経済理論ではGDPの拡大は、マネタリズムを中心とした金融政策に移行していることを考えれば、公共事業の拡大による景気刺激策などといった古色蒼然とした理論を未だに掲げているのは、時代錯誤のように感じる。
実際、今の安倍政権は、日銀総裁に黒田氏を迎えて、マネタリズム的金融政策に舵を切っている。
GDPの拡大を目標とするなら、まずは金融政策を中心に考えるべきであり、公共事業を中心とした財政政策による効果は限定的なものでしかない。
近年、公共事業の風当たりが強くなってきた背景には、現在の公共事業が、景気回復につながらず、財政負担を増やしているだけで、地方と都市、官と民の間の所得格差、負担の不公平さを招いているだけという国民の認識がある。
そこで御用学者たちが慌てて言い出したのが、外需依存への批判だ。財政出動による内需によって「GDPの拡大」を図るべきだという。一体いつの時代の経済理論なのだろう?
藤井氏もまったくその例に漏れず、GDPの拡大には公共事業が最も重要だという。当然、藤井氏、中野氏両者とも、TPPには大反対、そして、この対談でアメリカの金融政策に関しては極めて批判的な考えを示している。アメリカではITバブル、住宅バブルと次から次へとバブルを付け替えては、そのたびにGDPを拡大させる政策を行っていった。しかし、その後に残ったのは、貧富の差の拡大だけだと激しく批判するが、では、今の日本の公共事業に所得分配効果があるとでもいうのだろうか?
今は、70年代のような都市と地方の所得格差を論じるような時代ではない。民意を蔑(ないがし)ろにした中で行われている現在の「ばらまき事業」は、利権に与れる一部の層だけに所得の拡大をもたらし、そのほかのものには重い財政負担を押し付けるという所得格差をむしろ広げている。金融政策を配慮しない、このような財政出動中心の政策では、景気刺激効果も限定的で、都市部の失業率改善になんら寄与していない。極めていびつで非道義的な所得格差を招くだけだろう。
現在の利権化した公共事業では、地方と都市、官と民の間に所得格差や負担への不公平さを助長し、ひいては、国民の間に政治不信、官僚不信を招くだけの結果になりかねない。
えせ保守主義者にはもううんざり
繰り返して言うが、必要な公共事業は、今の時代こそたくさんある。しかし、ひとたび既得権益が出来上がると、既存の事業からの政策転換が非常に難しくなる。小泉政権や現在の橋下徹氏を支持する層は、このような全く民意を反映しない政治に閉塞感を感じているのだと思う。しかし、それを藤井氏に言わせると、「大衆」は、「退屈」だからこのような「劇的な」政治に喝采を送っているのだという。その自分の説を正当化するためにハイデガーの説などを持ちだしている。
ハイデガーの「Das Man」の概念は、西尾幹二氏が言及してから、しばしば保守系の論者の間で引用されることが多くなった。しかし、西尾氏はこの概念を戦後の日本の精神史を論じる文脈で用いていた。それが、藤井氏の場合は単にハイデガーの退屈に関する議論を特定の立場を非難するためだけに用いている。藤井氏にとって自分に都合の悪い立場の人間は皆、「大衆Das Man」なのだろう。
このようにして哲学的な概念は、矮小化されて悪用される。一知半解なハイデガーの議論など持ちだして、「大衆」を見下した態度からは、学者としての誠実さは全く窺えない。浅薄な知識からは、「大衆」である一般労働者よりも、既得権益層の利益を代弁するだけの御用学者の態度だけが透けて見えている。えせ愛国主義者が、悲憤慷慨して見せる演出には、いい加減うんざりする。