ユニクロ潜入捜査! – 横田増生『ユニクロ帝国の光と影』

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横田増生『ユニクロ帝国の光と影』(2013)

 前回の記事で今野晴貴氏の『ブラック企業』を取り上げたが、その著書の中でなぜかユニ黒の名前だけが伏せられていた。名前が伏せられた理由は、出版元の文芸春秋社がすでに別の出版物において名誉毀損でユニ黒と係争関係にあるためのようだ。次のような記事を見つけた。

J-CAST ニュース

カジュアル衣料品店「ユニクロ」の店長がサービス残業を証言した本『ユニクロ帝国の光と影』(2011年3月に出版)などの内容…

 しかし、せっかく名前を伏したにも関わらず、結局はユニ黒から抗議を受けたようだ。今野氏のTwitterから引用する。

 大企業の圧力に決して屈しない今野氏の態度には本当に敬服する。名前を伏せたのは、おそらく出版社側の意向なのだろう。

 そして彼の著書でユニ黒の名前を伏せざるを得なくした原因となったのが、横田増生氏の著書『ユニクロ帝国の光と影』だ。この裁判の記事を見て気になったので読んでみた。以下はその備忘録。

革命的経営者としての柳井氏

 山口の一衣料品店でしかなかった「小郡商事」を世界展開する「ユニ黒」にまで成長させた柳井正氏。毀誉褒貶のある人だが、彼の経営手腕がやはり人並みでないことは、本書の記述からも良く分かる。

 ユニ黒の一号店は、84年に広島市に出店された。この広島店の成功がユニ黒に郊外型店舗のチェーン展開という戦略をとらせる契機となった。当時は「洋服の青山」が紳士服で郊外型店舗のチェーン展開を行っていた。柳井氏はそれをカジュアル衣料でできないかと模索していたようだ。

 バブル景気へ向かう時代だったこともあり、ファッション衣料を扱う店は、高価な「DCブランド」が中心の品揃えで販売員が接客について回るという形が普通であった。それを低価格の品揃えに変え、敷居を高くしていた接客をなくし、気軽に入れる店作りを目指した。「売らんかなといった商売っ気」を極力排した買う側の目線に立った店作りだった。
 さらに品揃えの仕方も当時の主流から大きく変えた。年齢や性別などで細かく顧客を絞り込んで品揃えを行うのが一般的であった中で、ユニセックス、ユニエイジといった年齢や性別にとらわれないベーシックな品揃えを展開した。
 この戦略は成功し、90年代初頭にはチェーン展開が軌道に乗り、95年には150店舗を超えるまでになった。

 ユニ黒が低価格で販売が可能だったのは、当時の常識であった委託販売制度を採らなかったためだ。この制度では、小売業者は委託販売しているだけという形をとるため、売れ残りはメーカーや卸に返品することが出来た。アパレル業界では、流行の移り変わりが激しく、また商品の当たり外れの大きい衣料品を扱うため在庫のリスクが大きく、安定した商品の流通を行うためには在庫負担を流通の各段階に分散させる必要があった。委託販売制度はそうした業界側の要望で出来ていった制度だった。しかし、その一方でこの制度の下では、メーカー、卸、小売といった機能ごとにさまざまな企業が関わり、さらにその間に商社や流通業が入ってくるため、複雑で非効率な制度が出来上がっていた。柳井氏はこの制度に対してきわめて批判的であった。特に以下の三点を問題視していた。

・小売は売れ残りのリスクを避けられるが、その分の利益幅は低く抑えられてしまう。
・流通の各段階での非効率は、最終的に商品価格に上乗せされる。
・商品企画がメーカーや卸主導で小売の段階での品揃えに一貫性がなくなる。また価格設定もメーカーや卸主導になる。

 それに対し、ユニ黒は、商品の完全買取を行っていた。売り切ることを前提に、売れ筋の商品のみを仕入れる。それでも売れ残った場合は値下げしてシーズン中に売り切り、在庫を出さないようにする。小売主導の販売方法を当時から模索していたといえる。

 しかし、この方法は価格優先で品質管理が疎かになる傾向があった。メーカーから低価格の商品を仕入れて値引きして売るという方法に偏りすぎてしまうため、ユニ黒には安売りの粗悪品という印象が消費者の間に強く付いて回ることになった。こうした状況を打開するため、製造の段階から小売が品質管理に乗り出す必要があった。そこで柳井氏が取った方法が日本で初のSPAへの本格的な転換だった。

SPAへの転換

 SPA(Specialty store retailer of Private label Apparel)とは80年代後半にアメリカの衣料小売業のGAPが始めた製造から販売までの一貫管理の手法で、GAPはこの手法により90年代に衣料小売業界の最高売り上げを記録している。

 SPAでは、小売が製造の段階から商品企画と品質管理を行うことで、売り場での客の要望を直接、製造に活かすことができる。また流通も管理することで余計な中間業者の介入を排し、効率的な商品管理が可能になる。この方法は、商品の発注から納入までの期間を劇的に短縮し、小売が持つ商品動向の情報をすぐに製造に拾い上げることで流行の移り変わりにも柔軟に対応できるようにした。

 ユニ黒は98年からSPAへの本格的な転換を始めている。中国の工場に直接取引しPB(Private Brand)の開発を行い、原材料の調達にまで自社で管理する徹底した改革だった。中国の製造工場と品番を絞り込むことで、この急激な改革を成功させた。そしてこれが、98年のフリースブームにつながるのである。
 SPAの本格的な転換を果たしたことで、この頃から徐々にユニ黒の品質に関する一般的な印象が変わり始める。「安かろう、悪かろう」という印象から「安い割りに意外と品質がよい」という評判に変わり始めていた。
 98年に原宿に都心型店舗を出店。2000年代に入ってからは海外の一等地に店舗を展開するようになる。郊外型店舗からの脱却をはかることで、企業のBrand Imageの向上にも成功した。

 しかし、フリースブームが終了し、2001年頃からは長い業績不振に陥るようになる。SPAへの急激な転換をはかるために、品番を絞ったことが、主な原因だったといえる。

 巷では「ユニばれ」といった言葉まで生まれた。品番が少なくデザインも極めて類似しているため、ユニ黒を着ていると「すぐユニ黒だとばれる」という意味だ。

 ここから2007年のヒートテックのヒットまで長い試行錯誤の時期が続くことになる。だが、品番を増やし、デザインを改善し、機能性を追及した現在のユニ黒は、消費者から一定程度の評価を獲得し、国内の衣料品店として揺ぎ無い地位を獲得した。2009年度の売上高は6850億4300万円。営業利益率は15%を超えている。これが国内事業だけに限ると20%を超えるという。
 単価が低く、利益率も極めて低いと言われていたカジュアル衣料品で、これほどの高い売上高と利益率を実現し、今では国内有数の一流企業となった。

 常識に囚われず、いいと思ったものをすぐに取り入れようとする柔軟な発想、当時の商慣行に反した営業をやり遂げる実行力、リスクを恐れない決断力など、やはり、柳井氏の経営者としての才覚は、非凡なものがあるのだろう。

過酷な労働実態

 しかし、この異常に高い利益率は、経営努力のみによって生まれたものではない、とゼロ年代半ば頃から東洋経済や朝日を中心に批判記事が書かれるようになった。正社員率の低さ、長時間労働の常態化、名ばかり管理職など人件費を圧縮するためのさまざまな手法が採られていることが、複数の報道で明らかにされていった。

 ユニ黒の国内における労働実態はすでにさまざまに報道されているので、ここでは細かい記述は行わない。Wikipediaに簡単なまとめが出ているのでそちらを見れば十分だろう。

参考
ユニクロ – Wikipedia

 本書の価値は、国内の報道ではあまり触れられることのない中国の工場を取材し、国外における労働の実態を明らかにしたことにあるだろう。
 ユニ黒は中国の工場に守秘義務契約を結ばせて、その所在地すら秘匿にしている。著者は独自調査により所在地を割り出し、いくつかの工場で取材を敢行している。

 この取材から明らかになったことは、中国工場に対する対応が、欧米の衣料メーカーとユニ黒とでは明らかな違いが存在するということだった。NikiやAdidasといった欧米の企業は下請け企業の法令順守を重視するのに対し、ユニ黒は納期を重視する。中国国内では労働時間規制が甘いため、日本では考えられないような長時間労働が横行しやすい。ユニ黒は中国での労働実態にはほとんど意に掛けず、納期を重視するためその結果、長時間労働を助長してしまう。同じ工場でもAdidasのラインで働く労働者とユニ黒のラインで働く労働者とでは残業労働時間が全く異なってきてしまう話が紹介されている。

 仕入れ価格の決め方にも欧米メーカーとは大きな違いがある。近年中国での人件費の上昇が著しいが、NikiやAdidasは、人件費や原材料価格が上昇した際は、仕入れ価格をそれに伴って上げることができるため、その価格の上昇分はメーカー側の負担になるのだという。それに対し、ユニ黒は日本の販売価格を想定してそこから仕入れ価格を決めるため、人件費や原材料価格が上昇した場合は、工場側の経営努力で補わなければならない。

 さらにユニ黒の品質管理は他の企業においても類を見ないほど厳しいものだという。不良品率の業界平均が2%から3%なのに対し、ユニ黒の不良品率は0.3%だという。

 これだけ厳しい条件においても中国の工場が取引に応じるのは、発注量の多さと100%買取であること、さらに一度決めた取引条件が変わらないということにあるらしい。この点が業界一明瞭な契約といわれる所以だそうだ。しかし、ユニ黒と工場経営者はそれで利害が一致するから良いのだろうが、そのしわ寄せを食らうのは、工場で働く末端の労働者である。

ZARAとの差

 本書が面白いのは、ユニ黒とは全く異なった手法によって成功しているスペインの衣料品店ZARAを取り上げていることだ。ZARAは2009年1月期の売上高においてGAPを抜き、世界一の売り上げを達成している。2010年1月期の営業利益率は15.6%でユニ黒に匹敵しそうなほどの高い数値を出している。

 ZARAの特徴は、製造業出身のSPA企業ということだ。衣料製造業からSPAを展開した企業は世界でもZARAが唯一らしい。この点が小売店出身のSPA企業との差を作り出している。ZARAは商品開発から店舗に商品を並べるまでの期間が2週間程度と驚異的な速さを実現している。さらに年間で1万点という品番開発を行い少量多品種の品揃えを実現している。そして安易な低価格路線を採っていない。

 こうした手法で世界的に成功を収めたZARAは、世界70カ国以上に4900を超す店舗を展開し、従業員数は9万2千人を超えている。そして最も驚くべきことが、その正社員率だ。8割を超える従業員が正社員だ。ユニ黒の正社員率が1割なのとは極めて対照的だ。そして製造業出身であるだけに商品製造の半分以上をスペイン国内で行っている。人件費の安さを求めて中国へ、さらには東南アジアの国々へと工場を移転させているその他のSPA企業との違いが際立っている。

 ユニ黒に限らず今の日本の製造業は、人件費を圧縮し、国内の製造技術を海外に流出させ、国内産業の空洞化をもたらすことで、自社の収益を拡大を図っているように見える。こうした企業が、国内の人やもの、技術を食い物にして成長しているのに対し、ZARAは別の回答を与えている。国内の地域経済の成長とともに自社の利益を拡大していく企業の姿がそこにはある。

 しかし、ユニ黒もこうしたさまざまな批判に対して、全く無関心ではないようだ。柳井氏は、2014年4月、非正規雇用の大幅な見直しを発表した。3万人の非正規雇用者から1万6千人を順次正規雇用に切り替える計画だという。

日本経済新聞

「ユニクロ」のファーストリテイリングはパートやアルバイトを正社員にする取り組みを6月から始める。28日には東京都内で説明…

 ユニ黒のこうした企業努力は素直に評価したい。今後ユニ黒がどう変わっていくのか非常に気になるところだ。柳井氏が経営者として人並みはずれた才覚があるのは確かなのだから、あとは地域経済と企業がともに発展し、ともに利益を拡大できる道を探ってもらいたい。

 まぁユニばれの痛い経験を持つ私はユニ黒の商品を買うことはないだろうが。

追記

 当記事はユニ黒について書かれたものであり、ファーストリテイリング社のユニクロとは、一切関係ありません。