ゲアリー・マーカス『心を生みだす遺伝子』(2010)
Gary Marcus, The Birth of the Mind: How a Tiny Number of Genes Creates the Complexities of Human Thought, 2004
遺伝子とは?──誤解を招く「青写真」の比喩
遺伝子、すなわちゲノムは、しばしば私たちの体や心の「青写真(設計図)」に例えられる。しかし、著者のマーカスは、この比喩は誤解を招くものだと言う。科学が明らかにしつつある遺伝子の真の役割は、完成品の書かれた設計図というよりも、むしろレシピ──材料とその分量、そして手順が書かれたもの──のようなもだ。このレシピは、環境と手を取り合って働くことで、私たちが生涯にわたって経験から学ぶことを可能にしている。
かつて、科学者は「生まれ」と「育ち」のどちらが大切かという、答えのない「うんざりする」問いに直面していました。しかし、1980年以降、遺伝子の具体的な働きが解明され始めたことで、この長年の袋小路を抜け出せるところまできている。
本書は、人間の思考の複雑性が少数の遺伝子によっていかに生み出されるかという問いが中心に据えられている。著者マーカスは、遺伝子がタンパク質の「鋳型(THEN)」であると同時に、いつどこでその鋳型が使われるべきかを制御する「IF」の指示も提供するという「自律エージェント説」を提唱し、この制御メカニズムが脳の柔軟性と複雑性(「二つのパラドックス」)を可能にすると説明する。さらに、遺伝子の活動が学習や環境との相互作用を可能にするという視点が示されている。
以下では、著者の著者の主張を追っていこう。
多様性を生む遺伝子の働き
1. 遺伝子の正体:「IF-THEN」の制御システム
遺伝子は、単に体の構成要素を作るだけでなく、いつ、どこでそれを作るかを厳密に制御するシステムとして機能している。
すべての遺伝子は、主に二つの働きを持っている。
- THEN (タンパク質の鋳型): 体の構造や機能に関わるタンパク質のレシピを提供する部分。この鋳型は、3つの塩基の配列(コドン)がアミノ酸に翻訳され、それが連なって複雑な三次元構造のタンパク質となる。
- IF (制御情報): いつ、どこでそのタンパク質が作られなければならないかを指定する、制御条件を提供する部分。
このIFとTHENの関係は、ちょうどコンピュータプログラムの「IF-THEN規則」に似ている。たとえば、大腸菌のラクトース代謝酵素の遺伝子は、「周りにラクトースがあり、かつグルコースがないならば(IF)、酵素を翻訳する(THEN)」という論理的な規則に則ってオン/オフにする。
この仕組みにより、各遺伝子は中央処理装置(CPU)の指示を待つのではなく、個々の細胞において自律的に活動するフリーエージェント(自律エージェント説)として振る舞う。
2. 少ない遺伝子で複雑な脳を作り上げる秘密
ヒトの脳には約200億のニューロンがあるのに対し、タンパク質をコードする遺伝子はたかだか3万程度しかない。(本書刊行時点の最良の推定値。現在では人の脳には1000億以上のニューロン、遺伝子はより少なく2万程と見積もられている。)エールリッヒの「遺伝子の不足」と呼ばれるこのパラドックスは、どのようにして解決されるのだろうか?
この複雑性を可能にする秘訣は、遺伝子の驚異的な効率性と再利用性にある。
複数の役割とネットワーク
一つの遺伝子が複数の機能を持ったり、一つのDNA配列から状況に応じて異なるタンパク質が作られたりする仕組み(選択的スプライシング)があるため、遺伝子の数以上に情報量が多くなっている。また、複雑な生物学的構造は、たった一つの遺伝子ではなく、多くの遺伝子の協調した活動や相互作用によって生み出される。ある遺伝子のTHEN部分が、次の遺伝子のIF条件を満たし、連鎖的に他の遺伝子の発現を引き起こす精巧なネットワークが形成される。
組み合わせと使い回し
遺伝子は単独ではなく組み合わさって働くため、少数の遺伝子が掛け合わされることで、新しい組み合わせを指数関数的に増やすことができる。さらに、ゲノムは同じレシピ(同じ遺伝子)を必要なだけ何度も使い回すことができる。たとえば、ムカデが多くの脚を作るのも、それぞれの脚に個別の遺伝子があるのではなく、脚を作る遺伝子のカスケードの頂点にある同じ遺伝子をたくさんの場所で発現させることによるのだ。
3. 生まれと育ちの複雑な相互作用
遺伝子によって神経系が構築された後も、遺伝子は私たちの心の発達に深く関わり続ける。
学習と生得性
学習は生得性の対極にあるのではなく、むしろ生得性がもたらす最も重要な産物の一つだ。遺伝子は、特定の環境を賢く利用することを可能にしている。生まれつきの構造と、経験による修正(可塑性)は、論理的に独立していますが、密接に関わっている。
経験を奪うと大脳皮質の細胞が反応しなくなるのは、経験がなかったために構造形成に失敗したのではなく、出生時に存在していた神経結合が衰退したためだ。つまり、生まれは経験に先立って初期の神経構造を築き上げる力がある一方、その構造は後から経験に応じて変化しうる柔軟性を持っている。
遺伝子と環境の終身の関係
誕生の瞬間にとどまらず、生涯を通じて遺伝子は重要な役割を担う。動物が学習できるのは、経験自体が遺伝子の発現を変えるからだ。
遺伝子と環境は分離できるものではなく、受精の瞬間から、遺伝子の制御(IF)の多くは成長する胚を取り巻く世界(環境)によって影響を受ける。
最近の研究では、特定の遺伝子と環境の相互作用が、具体的な行動に影響を与えることが示唆されている。例えば、MAO-Aという酵素を産生する特定のタイプの遺伝子を持つ子どもは、子どものときに虐待された場合に限って、統計的に有意に攻撃的になりやすいことが発見された。これは、遺伝子が運命を固定するのではなく、特定の環境ストレスに対する感受性を調節している可能性を示している。
結論:遺伝子は変化の可能性を提供する
遺伝子と心(脳)の関係は複雑であり、一つの行動に対して単純な「一遺伝子、一形質」対応はほぼ存在しません。言語能力や特定の行動を生み出す神経回路は、一つの遺伝子よりもはるかに複雑だからだ。
遺伝子が「青写真」ではなく、常にIFを伴う「THEN」であるという理由から、私たちは「遺伝的であること=不可避的であること」と解釈する理由はない。
遺伝子を運命の硬直した支配者としてではなく、豊かな機会を提供するものとして理解するようになれば、私たちは「育ち」(環境)を最大限利用するための手段として、生まれ(遺伝的知見)を活用できるようになるだろう。
ゲアリー・マーカス『心を生みだす遺伝子』(2010)
コメント