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ヒトラーとナチスに揺れるドイツ – ミュンヘン一揆はなぜ起きたのか?

ミュンヘン一揆(画像出典: Wikipedia

 歴史の「なぜ」を考える―――
 ヒトラーとナチスに揺れるドイツ(全4回)第1回

ミュンヘン一揆の謎

 ミュンヘン一揆―――

 1923年11月に、ヒトラー率いるナチ党員によって引き起こされたクーデタ未遂事件だ。
 ヒトラーの歴史を考える上で、ヒトラーの政治行動に最も大きな影響を与えた事件の一つと言われる。

 ヒトラーは、ほとんど無謀とも思えるこのクーデタを準備不足のまま、性急に実行している。
 だが、この失敗は、その後のヒトラーの政治政策を大きく転換させることになった。その意味では、歴史的に非常に重要な事件だった。

 ヒトラーは、この失敗を教訓として、武力革命という手法を放棄。この事件以降、選挙という正当な手続きによって議会の多数派を占めることで、権力を掌握することを目指した。
 クーデタという方法は、計画の実行段階で、状況による偶発的要素に左右されやすく、不確実性が高い。また、国防軍や警察といった既成の軍事力を敵に回してしまうことになり、国内の軍事力を掌握していなければ、成功の可能性は極めて低いものとならざるを得ない。
 そこで、今後はヴァイマル憲法下での合法的な手段による権力奪取という方法へと路線の転換を図ることになる。そして、その手段としてヒトラーが重視したものが、宣伝と演説によって大衆の支持を得ることだった。

 ここに大衆心理を操作する宣伝活動と政治的演出、そして「演説」というヒトラーの政治家としての最大の特質が表れることになる。

 では、このきっかけとなったミュンヘン一揆を、ヒトラーはなぜ起こしたのか。その歴史的背景には何があったのだろうか。

ナチスの勢力拡大

 1919年9月、ヒトラーは、ドイツ労働者党(DAP)へ入党する。ドイツ労働者党は、ミュンヘンで設立され、汎ゲルマン主義を掲げた右派政党。中産階級ではなく、一般労働者(大衆)に根ざした民族主義を掲げた政党だった。ヒトラー入党当時のドイツ労働者党は、党員50人程度の右翼系泡沫政党の一つに過ぎなかった。
 1920年2月、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)へと党名を変更。この政党名が、ナチ党、ナチス(Nazis)と呼ばれるようになっていく。
 ナチスはミュンヘンにおいて急速に拡大していく。1923年11月ヒトラーがミュンヘン一揆を引き起こす頃までには、党員が5万人前後まで拡大した。

バイエルン革命 – ミュンヘンの特異な政治的背景

 ナチスの急速派勢力拡大の背景には、ミュンヘンの地域性が関わっている。
 バイエルンの首都ミュンヘンは、プロイセンの流れをくむベルリン中央政府に対する反感感情が強かった。
 バイエルン王国は、ドイツ帝国(帝政ドイツ)下で連邦国家の一つとして、プロイセン王国に次ぐ地位を築いていた。第一次大戦末期、1918年11月、ドイツ革命(11月革命)によってドイツ帝国が崩壊すると、バイエルンでは早くから社会主義者による革命運動が起き無政府状態となった。この混乱に乗じてソ連のボリシェヴィキ派が介入を図り、1919年4月、ロシア出身の共産党員によって共産主義政権(レーテ共和国)が発足した(バイエルン革命)。
 だが、一か月後の1919年5月、ドイツ中央政府はヴァイマル共和国軍を投入し、この共産主義政権を崩壊せた。

 このバイエルン革命は短命に終わったが、その後のバイエルンの政情に与えた影響は大きかった。この共産主義革命の失敗以降、バイエルンは、政治的反動が起きて極度に右傾化していく。

 バイエルンは、カトリックの多い地域であり、政治的には保守的な傾向が強い土地柄だった。また、バイエルン人たちの間には、歴史的に反プロイセン感情が根強く残っていた。社会主義、共産主義革命への支持は、単なる反ベルリン感情に基づくものだったとも言われている。
 特に共産主義政府の崩壊以降、ソ連のボリシェヴィキ派に対する警戒感は、非常に強いものとなった。

 ミュンヘンの政治情勢が反動化を強める中、ドイツ国防軍の情報宣伝係となっていたヒトラーは、1919年9月にボルシェヴィズムの影響阻止と汎ゲルマン主義の流布のために、ドイツ労働者党(DAP)へ潜入捜査が命じられる。だが、ヒトラーは、ドイツ労働者党の党首ドレクスラーの反ユダヤ的・反資本主義的な主張に感銘を受け、ドイツ労働者党への正式加入を決めてしまう。
 以降、ヒトラーはドイツ労働者党、後のナチスで急速に頭角を現していくことになる。

ミュンヘン一揆

 ヒトラーは、1921年には、ナチス指導者としての地位を確立。
 1923年11月、ミュンヘン一揆を実行する。

 1923年1月に、フランス軍はドイツの賠償義務不履行を口実として、ドイツの重工業地帯であるルールを占領していた。これによりドイツ全土でストライキ、ボイコットが拡大。それに伴ってドイツ国内では、破滅的なインフレが生じ、ヴァイマル共和国は、政情不安に陥った。

 保守的な土地柄で、反動の右傾化が進んでいたミュンヘンでは、この政情不安の中で、ベルリンの中央政府によって運営される左派系のヴァイマル共和制への反対機運が高揚。

 このような政治情勢を見て、ヒトラーは一気に革命政権を作ろうと試みたのだった。
 バイエルン州総督カールの演説会場であったビアホールにナチス突撃隊(SA)を突入させ、カール総督以下、バイエルンの指導部を人質に取った。
 この際、ヒトラーの意図した国民革命とは、ミュンヘンの右翼勢力を団結させ、ベルリンの中央政府に代わる「国民政府」を樹立しようというものだった。

 しかし、この計画はバイエルン州警察の手によってあっけなく鎮圧され、失敗に終わった。ヒトラー自身も2日後、ミュンヘン郊外で逮捕された。

ミュンヘン一揆の背景

 ミュンヘン一揆は、たった一夜で収束した非常にお粗末な計画だった。
 そこにヒトラーの未熟さゆえの情勢判断の誤りがあったことは確かだ。
 だが、当時のミュンヘンの情勢は、さまざまな政情不安を生む要因に満ちていたことも事実だろう。

・ミュンヘン(バイエルン王国)とベルリン(プロイセン王国)との間の対立感情
・保守的土地柄によるヴァイマル共和国の左派的政権への反感
・共産主義革命と無政府状態を繰り返したことによる政情不安
・共産主義政権崩壊後の政治的反動と市民の右傾化
・ソ連ボリシェヴィキ派介入への極度の警戒感

 このようなミュンヘンの政治情勢が、ヒトラーをクーデタへと駆り立てた背景にあった。前年の1922年にイタリアでファシズム政権が成立していたことも影響し、ヒトラーは稚拙で無謀な計画へと走ったのだった。

参考図書
野田宣雄『ヒトラーの時代』文春文庫

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