ヒトラーとナチスに揺れるドイツ – なぜ独ソ不可侵条約は成立したのか?

独ソ不可侵条約の調印(画像出典: Wikipedia

歴史の「なぜ」を考える―――
 ヒトラーとナチスに揺れるドイツ(全4回)第3回

 第1回 第2回 第4回

独ソ不可侵条約締結の謎

 1939年8月、世界に衝撃を与えた独ソ不可侵条約が成立した。
 この条約の成立が、ヒトラーのポーランド侵攻を可能にさせ、事実上第二次世界大戦の引き金となってしまった。
 西欧諸国は、独ソ接近の可能性を過小評価していた。イデオロギー上も外交戦略上も激しく対立していたヒトラーとスターリンが手を結ぶことはあり得ないと考えていた。

 独ソ両国の思惑はどこにあったのだろうか。どのような政治情勢が両者の接近を可能にしたのだろうか。

ナチスの対外膨張政策とソ連の国際協調路線

リトヴィノフ外交

 1930年代のソ連の外交方針は、ナチス・ドイツの侵攻に備えるための集団安全保障の樹立にあった。それを主導したのがソ連のリトヴィノフ外相だった。

 1930年代になると各国で恐慌による経済的混乱の収束を掲げてファシズムが台頭してくる。1933年に成立したナチス政権は、スラブ圏への生存権拡大を主張し、対外膨張政策を掲げてきた。
 これに危機感を抱いたソ連は、リトヴィノフを中心として、資本主義諸国と提携し、国際協調へと路線を転換した。
 1933年、フランス、チェコスロヴァキアと相互援助条約締結。
 1934年、国際連盟加入。
 1937年、スペイン内乱に介入して、共和国政府を支援し、ドイツ、イタリアの支援を受けるフランコのファシズム勢力を牽制した。

 しかし、ソ連のこうした国際協調路線にも関わらず、英仏のソヴィエト政権に対する不信感は根強く、リトヴィノフは、ソ連の安全保障を英仏のみに完全に依存することは不可能と見ていた。そのため、リトヴィノフは、ドイツとの交渉の窓口は残しておくべきと考えていた。独ソ間の通商関係を良好なまま維持し、この経済関係を土台として、外交交渉も継続された。

ドイツの極東政策の転換

 1936年11月、共産主義拡大を阻止するため、日独防共協定が成立する。
 1937年、盧溝橋事件が起き、日中が戦争状態へと突入していく。ドイツは当初、日本の中国進出を非難していた。中国国民党との戦闘は、中国国内の共産主義勢力とソ連の立場を有利にするだけだと忠告していた。
 中国駐在ドイツ大使トラウトマンが日中平和工作に乗り出すが、1938年1月、日本の近衛政府が「蒋介石を相手にせず」と声明を出したことで、トラウトマンの日中平和工作は完全に暗礁に乗り上げる。日本軍は、一体誰を相手に戦っているかも分からない泥沼の戦闘に飲み込まれていった。ここに至って、日中の平和工作は挫折し、ドイツの極東政策は、日本の中国進出支持へと転換する。
 1938年5月、ドイツ政府は満州国を承認。中国への武器輸出を禁止した。

 この極東方針転換の背景には、ナチス・ドイツ独自の理由もある。独英同盟の実現が1937年頃には、不可能であることがはっきりしてきていたのだ。
 イギリスは対独宥和政策を掲げて、1935年に英独海軍協定を締結していた。駐英ドイツ大使リッベントロップは、この独英関係を反ボリシェヴィキを中核として独英同盟にまで発展させようとしていたが、ヴェルサイユ条約を破り対外膨張政策を掲げるナチスと防共同盟を結ぶほど、ナチス政権を信頼していなかった。

 イギリスとの同盟成立が不可能であることがはっきりし始めたことで、ナチス政府内で、イギリスに代わる防共同盟の締結先として、日本の存在が大きくなっていく。

ミュンヘン会談とチェコスロヴァキア解体

 1938年3月、独墺合邦。イタリアの後ろ盾を失っていたオーストリアは、殆ど無抵抗のまま、ナチス・ドイツに合邦された。

 オーストリア併合に成功したヒトラーは、次にチェコスロヴァキアへの進出を実行に移す。
 1938年3月以降、チェコスロヴァキアの重要工業地帯ズデーテンラントで、ズデーテン・ドイツ党が自治要求運動を活発化させる。この地域は、ドイツ系の住民が多数派を占めていた。ヒトラーはそこに目を付けて、ズデーテンの独立運動を裏から支援していた。
 1938年9月、ヒトラーは党大会で、チェコスロヴァキアへ軍事介入を公に示唆する。これを機に、ズデーテンラントの独立運動が激化。ドイツのチェコスロヴァキアへの侵攻は目前にまで迫っていた。
 この一触即発の状態を前にして、イギリスのチェンバレン首相は、戦争回避のための介入を図る。

 チェンバレンの働きで、英仏独伊の4ヵ国でミュンヘン会談が開催され、ミュンヘン協定が結ばれる。ドイツによるズデーテンラントの占領を承認するかわり、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻の撤回が決められた。ナチス・ドイツに対する一方的な宥和政策だった。チェコスロヴァキア政府は会議に参加することさえ許されず、英仏政府によって協定内容を強制的に認めさせられた。

 ミュンヘン会談によってヒトラーはチェコスロヴァキア侵攻を諦めたわけではなかった。チェコスロヴァキアは、チェコ系とスロヴァキア系国民との間には、文化的な違いに基づく反目があった。ヒトラーはズデーテンラントの時と同じように、国内の民族的反目に目を付けて分離工作を始める。
 スロヴァキアの分離独立運動家のティソ、ドゥルカンスキーをベルリンに呼び、スロヴァキア独立を宣言するように指示を出し、ティソを首相とするスロヴァキア独立政府を樹立させた。

 1939年3月、チェコスロヴァキアの治安安定化を名目に、プラハへ進軍する。そして、チェコを占領した。チェコスロヴァキアは解体、ドイツ占領下に置かれることになった。
 この時点で、ナチス・ドイツの対外侵略の意図は明確で、宥和的な妥協で撤回されるものではないことははっきりとしていた。それでもイギリスのチェンバレンもフランス首相のダラディエも戦争回避のためのドイツ融和策を改めようとはしなかった。
 だが、ミュンヘン会談が全く無力なまま、チェコスロヴァキアの解体という事実を突きつけられて、イギリス国内の世論が、反戦平和から反ナチスへと変化。対独強硬姿勢を政府に求めるようになっていた。この世論に押される形で、3月末、チェンバレンは、ポーランドと軍事保障協定を結ぶ。これを機に英仏政府は対独宥和政策を改め、ポーランド、ルーマニア、ギリシアとの間に軍事保障協定を結んで、ドイツ侵攻に備えるようになった。

ナチスのポーランド侵攻計画と対ソ接近

ヒトラーのポーランド侵攻計画と英仏介入阻止工作

 オーストリア、チェコスロヴァキアを占領したナチス・ドイツの対外侵略は、さらに拡大していく。
 チェコスロヴァキア占領の1週間後には、ヒトラーはリトアニアに侵攻。元ドイツ領で1923年以来リトアニア領だったメーメル地域を返還させた。

 ナチス政権は、ポーランドとは、港湾都市ダンツィヒと東プロイセンとドイツ本土を隔てている回廊地域をめぐって対立していた。この地域の奪還は、第一次世界大戦以来のドイツ政府にとっての悲願だった。
 1939年4月、ポーランドとの不可侵条約を破棄。ヒトラーはポーランド侵攻を次の目標に据えた。翌5月、ヒトラーは軍事会議を開き、ポーランド侵攻の具体的日程を決定する。

 ヒトラーは、ポーランド侵攻が、オーストリア併合やチェコスロヴァキア解体の時のように無血占領によって達成されるとは考えていなかった。また、今まで宥和政策を採っていた英仏との間で軍事衝突も避けられないと判断していた。そのため、それまでに英仏の介入を避けるための外交戦略を展開し、そのうえでポーランド侵攻を9月と決定した。
 ヒトラーの構想は、日独伊の軍事同盟を結成して、イギリスの介入を牽制することだった。イギリスさえ介入しなければ、フランスも動かないという考えだった。

日独軍事同盟締結交渉の挫折

 1938年半ば頃からドイツは極東政策を転換し、日本との同盟締結のために日本政府へ働き掛けていた。陸軍はドイツとの同盟締結に賛成だったが、外務省と海軍は英仏を敵に回すことになる日独同盟への締結に難色を示す。

 1939年5月、独伊の間に軍事同盟が成立。ヒトラーはローマ・ベルリン枢軸を軍事同盟にまで発展させることに成功した。だが、日本との間の交渉は低迷。
 1939年8月には、日独同盟締結への交渉は挫折する。ヒトラーは、日本との交渉が低迷している間、日本に代わる交渉相手として、秘密裏に対ソ接近を進めていった。

独ソ不可侵条約成立の衝撃

英仏の対ソ接近

 ソ連は外相リトヴィノフの下で、英仏に対して、対独安全保障体制樹立のための働きかけが続けられていた。
 イギリス国内でもポーランドやルーマニアなど東欧諸国をドイツ侵攻から守るために、ソ連との同盟締結の必要が議論されるようになる。

 1939年4月、英仏とソ連の間で同盟締結のための交渉が始まる。だが、チェンバレンはソ連に対する不信感が強く、ソ連との同盟締結よりもドイツとの宥和の方にまだ可能性をかけていた。そのため、この交渉は一向に進まなかった。特に交渉を阻んだのが、ソ連が東欧諸国援助を口実として勢力拡張を図るのではないかという英仏政府の根深い対ソ不信だった。ドイツによる被侵略国が援助要請を行わなくても軍事援助が発動できるように主張したソ連に対し、英仏は、これに断固反対した。

 対ソ交渉が行き詰まっている中、1939年8月、突如として独ソ不可侵条約の締結が発表され、この交渉は打ち切られた。

スターリンの二面外交戦略

 ソ連のスターリンは、ミュンヘン会談で英仏独伊の四カ国同盟が進むことで、ドイツのソ連侵攻に対して、国際連盟が黙認するのではないかという国際的孤立化への危機感を募らせていた。特にスターリンの疑心は、英仏がナチスを防共の砦として対ソ戦略に利用しよとしているのではないかという点にあった。

 また、ソ連は極東において、満ソ国境付近で日本との軍事対立を繰り返していた。1938年、張鼓峰事件、1939年ノモンハン事件が続いた。ソ連は日独両面対決を避けるために、ドイツへの接近を図る。
 1939年4月からの英仏との交渉で、両者の溝がはっきりしたことで、スターリンは、ソ連の国家安全を図るという立場から、イデオロギー対立を超えて、ナチス・ドイツとの交渉を開始。外相の地位にモロトフを据えて、独ソ不可侵条約を締結させた。

 スターリンは、国家の安全保障という絶対的目標の前にイデオロギー対立を棚上げし、英仏との交渉とナチスとの交渉を同時に進めて、どちらに転んでも孤立化を避けるという戦略を採っていたのだ。
 英仏両政府は、この独ソ同盟締結の可能性を過小に評価していたことが、対ソ交渉決裂の最大の要因となった。

 独ソ不可侵条約締結の2日後、イギリスはポーランドと軍事同盟を締結。しかし、すべては後手だった。

 独ソ不可侵条約の締結は世界に衝撃を与えた。独ソが提携したことで、ヒトラーの対外膨張政策を止める手立てがなくなってしまった。これでヴェルサイユ体制は完全に有名無実の態と成り果ててしまった。

 ソ連の対独接近を許してしまった背景としては、次の点があげられる。
・英仏の間にある根強い対ソ不信
・共産主義に対する警戒感
・ナチス政権を防共の前線に利用しようとする英仏の思惑
・ポーランドやルーマニアなど東欧諸国にあるソ連に対する強い警戒感

 一方のソ連が対独接近した背景には次のようなものがあげられる。
・イデオロギー対立より、ソ連の国家安全保障を優先したスターリンの外交戦略
・リトヴィノフ外交による国際協調路線の低迷
・モロトフ外相によるナチス接近と英仏との交渉を同時に進めた両面外交

 こうして世界の命運を決定した世にも奇妙な条約が締結されたのである。

参考図書
野田宣雄『ヒトラーの時代』文春文庫