読書案内
竹信三恵子『ルポ賃金差別』(2012)
増加の一途を辿る非正規雇用
2012年刊行。
総務省統計局が2016年5月に発表した2016年1月から3月期の労働力調査によると、非正規雇用者数は、全体の37.1%で2007万人、女性だけで見た場合は、53.6%にもおよび、1364万人になる。
正規の職がないために非正規雇用に甘んじる人の割合も27%に達し、515万人に及ぶ。
非正規雇用者は、賃金が一般成人の生活保障最低賃金にすら届いてない場合も多く、個人として経済的に自立する基盤を奪われている。「労働に従事していながら経済的には自活できない」という労働者が4割近くにも及ぶという、海外でも例が見られないような歪んだ労働市場が形成されている。
参考
・統計局ホームページ/労働力調査(詳細集計) 平成28年(2016年)1〜3月期平均(速報)結果
非正規雇用が経済格差を助長すると指摘されるようになってすでに久しい。しかし、この数字を見ると実態として一向に改善していないことが見て取れる。
このような労働者を2000万人以上も抱えている国の経済が好転するわけもなく、日本の消費支出(二人以上世帯)は、3年連続の下落だ。日銀によるたび重なる金融緩和によってもいまだに2%の物価上昇目標を達成できていない。国内消費が冷え込んだまま、経済停滞が長期化する要因の一つとして、非正規雇用の拡大があることは明らかだろう。
本書は、増加の一途をたどる非正規雇用者の実態に追ったルポルタージュだ。非正規雇用に追いやられた一人ひとりの具体的な生活が描かれている。そこから見えてくるのは、望まない形で非正規雇用で働かされている人々の姿であり、将来に不安を抱えたまま、現状から抜け出せずにいる悲惨な境遇だ。
これを本人の自己責任だとして片付けてしまえるかどうかは、その人の想像力次第だろう。しかし、本書で取り上げられている人々の姿からは、自己責任の範囲を超えた企業と労働市場の歪んだ構造が見えてくる。著者はそれを「差別」と呼ぶ。
賃金「格差」ではなく、賃金「差別」
著者が本書の中で再三強調していることは、非正規雇用というのは、格差なのではなく、差別なのだということだ。本書の題も「賃金格差」ではなく、「賃金差別」だ。
これが差別と呼ばれるのは、正規雇用と非正規雇用を分けるものが、業務内容ではなく、雇用形態のみにあるからだ。
現在、非正規雇用はさまざまな分野に拡大し、その数も増え続けている。今では、業務内容も正規雇用とほとんど変わらないか、あるいは正規雇用以上の負担を押し付けられている場合も多くなってきた。それにもかかわらず、雇用形態が違うという理由のみで、全く異なる待遇を強いられる。
いったん非正規の枠組みに入れられると、その個人の能力や背景は一切関係なしに、「低賃金でかまわない人たち」というレッテルが貼られ、「生計を立てられなくても大丈夫な人たち」として扱われる。
そして、この認識の下で、賃金、社会保障、福利厚生、勤務評定といったすべてにおいて異なる待遇を受けることが正当化されてしまう。
雇用形態が違うのだから、待遇に差があるのは当たり前だ、と周りの人間が、それを当然のように受け入れている。しかし、仕事を評価するのに雇用形態というのは、本来なんら関係がないはずだ。雇用形態の違いを理由に、評価や待遇を変えるのは、単に身分制度でしかない。
業務内容や業務に伴う責任の多寡、個人の能力や意欲が、本来、評価されるべきだ。しかし、一度この「身分の違い」という認識が成立すると、これらは、なんら評価の対象としなくてかまわないことになる。
そして、最も恐ろしいことは、業務内容の差はますます曖昧になっているにもかかわらず、この身分差はますます固定化しているという事実だ。ただ、そこには、雇用形態の違いという区分があるだけだ。つまり、非正規雇用が拡大し、業務内容が多岐に亘るにつれて、違いは雇用形態の差だけになっている。もう、そこには労働内容や個人の就労意欲を見て評価する視点はどこにもないのだ。
差別の定義が、ある社会的枠組みによって一部の人々を区分し、その認識の下でその個人を取り扱うことだとしたら、非正規雇用はまさに差別に他ならないだろう。
働き方の違いによって差をつける日本
「雇用形態の違い」「入り口の違い」―――日本では、それによって待遇に歴然とした差がつけられる。このような区分が、同じ会社の中で、同じ部署の中で、同じ職場で混在しているのだ。
業務内容や個人の能力によって区分され、待遇に差が出るのであれば、それは実力主義の名で呼べるだろう。しかし、日本の労働現場に存在するのは、業務内容や個人の能力とは関係ない区分だ。
この区分は、そもそも「働き方の違い」に由来している。当たり前だが、個人の経済的、家庭的、社会的背景は当然それぞれ違う。個人の置かれている社会的条件というのはそれぞれ異なるのだから、働き方に違いが出るのは当然だろう。
こうした個人の置かれた社会的条件によって待遇に差がでないように労働条件を改善していこうとしているのが、先進国の共通の認識だろう。
女性が出産によって不利な条件を与えられないようにすること、子育てに支障が出ないよう男性も育児休暇を取れるようにすること、より専門的な知識のために大学院や大学などに入り直すことを支援すること、家庭内での介護や地域社会での奉仕活動などと業務が両立できるようにすること、などはその代表的なものだ。
このような個人の置かれた条件によって待遇に差がでないように勤めるのが、欧米で一般的な労働環境の整備のあり方になっている。待遇の差は、主に業務内容とそれに伴う責任の重さ、個人の適応性と能力だけを評価の基準として決める。それ以外のものを評価の基準にすると差別としてすぐに訴えられてしまう。
しかし、日本の場合はこれが全く逆になっている。個人の置かれた社会的事情によって、待遇に差が生まれることが正当化されているのだ。それぞれの個人的な事情によって働ける条件は異なってくるはずだ。日本の企業は、そうした個人の置かれた状況によって差があらわれないよう配慮するのではなく、逆に、それを根拠に待遇の差を与えている。
個人それぞれが抱えている状況は決して同じものではない。すべての人間が、新卒正規で一生をフルタイムで働けるわけではない。個人の置かれた状況に一切配慮せず、「新卒正規で一生をフルタイムで働く」という条件からこぼれた人間は、すべて非正規として扱い、差別的な待遇に甘んじることを強制する。
そのため日本では、育児を優先しようとすれば、パートにしかつけない。家族の介護のために働ける時間に制限があると、離職を余儀なくされる。自らの専門性を高めるために、仕事をいったん休職し、大学院で学びなおすことも難しい。家庭の事情で地方や海外への異動を受け入れられなければ、正規としての職はない。大学卒業後、自分の夢に挑戦してみることも否定される。
新卒で一生を常勤として働くこと、この条件が受け入れられない人は、すべて非正規へと追いやられるのが日本だ。
画一的な働き方しか許されない社会。多様性を認めず、個人の事情にも配慮しない。そうして活力を失ったまま、経済が停滞し、ジリ貧化しているのが、今の日本の姿なのではないのか。
本書で取り上げられている人々とは、「新卒で一生を常勤として働くこと」という条件を受け入れられなかったために、非正規に追いやられ、不当な待遇を受けている人たちだ。彼らの姿から見えてくるのは、たったこの条件を受け入れられないという理由のみで、身分制を正当化する社会への憤りだ。
日本の企業は、労働者を北朝鮮のマスゲームを踊る人民か、共産党の指示に従順に従う労働者か何かと思っているのだろう。日本の経営者のメンタリティというのは、極めて「共産党的」なのだ(共産主義的、あるいは社会主義的ではない)。
人にはそれぞれ、個人の顔がある。それぞれ個人の顔を見た、多様な働き方が保障されてこそ、社会の活性化も、経済の発展も実現可能なものになるだろう。今の日本の閉塞感を生み出しているものとはまさに、そうした個人を見る目の欠如なのだ。