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人類の歴史は幸福をもたらしてきたのか──ハラリ『サピエンス全史』を読む

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進歩と幸福を問い直す:『サピエンス全史』書評

 唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(下)』p.349

 「何かが欲しい」「何かになりたい」「何かをしたい」──そうした欲求は誰しもが抱く。しかし、そもそも「自分は何を望むべきだと思っているのか」「何を望むことを欲しているのか」と問われ、即答できる人は多くない。個人ですら本当に望んでいるものを簡単には言えないのだから、人類全体が何を望み、どこへ向かおうとしているのかなど、なおさら答えようがないだろう。

 それにもかかわらず、人々は技術の進歩や物質的な豊かさを目指して日々邁進している。その背景には、「進歩こそが正しい」という漠然とした観念があるからだ。技術が進むこと、物質が豊かになることは、自分たちに幸福をもたらすはずだ──人々はそう、意識的にも無意識的にも信じている。

 しかし著者ハラリは、こう問いかける。「人類は何を望もうとしているのか。そして、これから何を望むべきなのか。」古代より現代の方が、親の世代より自分たちの世代の方が、10年前より今の方が、技術が進んでより良い生活になっているはずだ──人々が漠然と抱いているそういった進歩の考え方を批判し、人類史は本当に人間や生物全体にとって幸福を増やしてきたのかを問い直す。

幸福とは何か?──『サピエンス全史』が投げかける根本的な問い

 話題となった『サピエンス全史』では、「サピエンスは虚構を信じることで協力し、他の人類に優位に立った」「農業革命は幸福をもたらさなかった」といった挑発的な命題が注目を集めてきた。しかし、著者が真に見つめようとしているのは、人類の歴史そのものが「幸福」へとつながっているのかどうかである。これから人類はどこへ向かうのか。その進路を幸福という観点から改めて問うことこそ、本書全体を貫くテーマなのだ。

 少し長くなるが、ここで印象的な文章を引用してみたい。

 私たちは以前より幸せになっただろうか? 過去五世紀の間に人類が蓄積してきた豊かさに、私たちは新たな満足を見つけたのだろうか? 無尽蔵のエネルギー資源の発見は、私たちの目の前に、尽きることのない至福への扉を開いたのだろうか? さらに時をさかのぼって、認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか? 無風の月に今も当時のままの足跡を残す故ニール・アームストロングは、三万年前にショーヴェ洞窟の壁に手形を残した名もない狩猟採集民よりも幸せだったのだろうか? もしそうでないとすれば、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?
 歴史学者がこうした問いを投げかけることはめったにない。ウルクやバビロンの住民が狩猟採集生活をしていた祖先よりも幸せだったのか、あるいは、イスラム教の台頭によって、エジプト人は日々の暮らしに対する満足感が深まったのか、さらには、アフリカにおけるヨーロッパの諸帝国の崩壊が無数の人々の幸せに影響したのかといった問題は提起しない。だがこれらは、歴史について私たちが投げかけうる最も重要な問いだ。現在のさまざまなイデオロギーや政策は、人間の幸福の真の源に関するかなり浅薄な見解に基づいていることが多い。国民主義者は、私たちの幸福には政治的な自決権が欠かせないと考える。共産主義者は、プロレタリアート独裁の下でこそ、万人が至福を得られるだろうと訴える。資本主義者は、経済成長と物質的豊かさを実現し、人々に自立と進取の精神を教え諭すことによって、自由市場だけが最大多数の最大幸福をもたらすことができると主張する。
 本格的な研究によって、こうした仮定が覆されたらどうなるだろう? 経済成長と自立が人々の幸せを増大させないのなら、資本主義にはどんな利点があるのか? 巨大帝国の被支配民のほうが一般に、独立国家の市民よりも幸せで、たとえば、アルジェリア人が独立後よりも、フランスの支配下にあったときのほうが幸せだったということが判明したら、どうだろう? それは、植民地解放の進展や国民の自決権の意義に関して、どんな意味を持つだろう?

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(下)』pp.282-284

 人類史の研究は近年大きく進展しているが、「歴史を幸福の観点から問い直す」試みはきわめて少ない。

 著者はまず、進化とはDNAが複製される過程を説明するものであり、決して個人の幸福を目的としたものではないと指摘する。進化の観点から言えば、生物の成功とは「より多くのDNAを複製すること」にある。そのためには個体の幸福は関係がない。

 たとえば現在、牛は10億頭以上、鶏は250億羽以上いると推定される。家畜化されたことで個体数を飛躍的に増やせた点では、進化論的には「成功」だと言える。しかし、その飼育環境が牛や鶏にとって幸福かどうかは、疑わしいと言わざるを得ない。

 人類もまた同じである。穀物の栽培を始めたことで人口を急激に増やすことに成功したが、その代償として過重労働や階級社会、経済格差を生み出した。農耕の開始は進化論的に見れば確かに成功だった。しかし、それは本当に人類にとって「幸福」だったのだろうか。

 私たちがこれまで当然のように信じてきた「進歩は正しいことだ」という観念は、もしかすると誤っているのかもしれない。もしそうだとしたら、これから人類はどこへ向かえばよいのだろうか。

学術書ではなく批評として

 広く読まれた本であるだけに、批判も少なくない。特に「人類史を一望する」という試みの結果、各論における学術的厳密さの不足は否めない。叙述のわかりやすさの裏で、多くの研究成果が単純化されており、原注や出典も限られる。そのため学問的には議論の余地が多い。たとえば「農業革命は人類の最大の詐欺だった」という断言は刺激的ではあるが、一面的すぎるとの批判を受けている。専門家からも「面白いが証拠に乏しい」「解釈の飛躍が多い」といった指摘が多くなされている。

 さらに、この本が教養書として大きな影響力を持つがゆえに、ハラリの叙述が「学界の通説」と誤解される危険もある。実際には学術的合意が存在せず、異なる見解が対立している領域も少なくない。

 とはいえ、著者の狙いは細部の学術研究を紹介することにはない。彼の真意は、人類史を新しい観点から問い直すことで、「これからの人類の姿」を浮かび上がらせようとする点にある。

 『サピエンス全史』は、人類の歩みを「認知革命」「農業革命」「科学革命」という物語的枠組みで描き直した。発表以来、多くの読者に強烈な印象を残し、知的な刺激を与え続けている。学問的な厳密さよりも、新たな思考を促し、未来を考えるきっかけを提供することを重視している点で、この本は「学術書」ではなく「思想的エッセイ」として読むべき作品だ。事実を学ぶための教科書というよりも、「人類史をどう解釈し、未来をどう構想するか」を考えるための出発点なのだ。

 多くの反響を呼び、各所で書評や批判が寄せられてきたが、著者の根本的な問いに正面から応答する論考はほとんど見られない。それだけ、著者の問いかけが大きなものだったということの証左なのかもしれない。

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