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矮小化された保守思想の末路 – 安田浩一『ネットと愛国』

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安田浩一『ネットと愛国』(2012)

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ネットの中で歪む愛国心

「あの人たちだって、楽しくてしかたないって人生を送ってるわけじゃないんだろ?そりゃあ腹も立つけど、なんだか痛々しくて、少なくとも幸せそうに見えないなあ」

 在特会(「在日特権を許さない市民の会」)という団体がネット上で注目を集め始めたのは、2007年から2008年頃のことだった。彼らの抗議活動の様子が動画として撮影され、YouTubeなどに頻繁にアップロードされることで、急速に知名度を高めた。私が初めて彼らの映像を目にしたとき、軽い衝撃を受けたのを覚えている。と同時に、保守と呼ばれる運動のあり方に対する強いの失望の念も感じた。

 安田浩一氏の『ネットと愛国』は、こうしたネット右翼と呼ばれる言説の盛り上がりを背景に登場した在特会という団体に対して、継続的な取材を通じてその実態に迫ったルポルタージュである。

 ネット右翼、いわゆる「ネトウヨ」は、1990年代半ば以降、保守的な言説が社会的に一定の受容を得るようになった中で登場した。それ以前の日本社会では、愛国的な主張は公に語りにくい雰囲気があったが、90年代を境に状況は変わり、国家や国益を語る議論が表舞台に出るようになった。当初は言論誌や討論番組を中心とした専門家の議論が主だったが、インターネットの普及により、一般市民もこうした議論に参加するようになっていく。

 しかし、その過程で議論の方向性が変質し、国益や安全保障といった政策的論点から、特定の国や民族への排外的な主張へと偏っていった。2000年代半ばには「ネトウヨ」という呼称が一般化し、極端な排外主義や差別的言動が目立つ人々としてのイメージが広まった。

 こうしたネット上の言説を現実の行動へと展開したのが、在特会である。彼らが特に問題視したのは、「在日特権」と呼ばれる制度であった。たとえば、年金や生活保護の給付をめぐる在日外国人と日本人との間の不平等が挙げられた。

 こうした主張は、一見すると国益や公平性への関心に基づくもののように見えるが、その背後には、経済的・社会的な困難の中で抱える不満や不公平感があるのではないかと安田氏は指摘している。特に「在日特権」という概念自体が、必ずしも事実に基づくものではなく、ネット上の誤情報や一部の誇張された報道によって作り出された印象であることが、丁寧に検証されている。

 在日特権と呼ばれる制度の多くは、本来、社会的な配慮や救済措置の一環として設けられたものであり、アメリカのアファーマティブ・アクションと類似した側面もある。それが誤解や曲解を受け、差別的言説の根拠として用いられている現状には、制度や社会に対する基礎的な理解の不足があるといえる。

 また、ネット空間においては、誤った情報が容易に流布され、訂正されにくい構造がある。そうした環境の中で、閉じた情報空間に依存し、自らの経験や視野に照らして検証する機会を持たないまま行動に至る人々の姿が浮かび上がる。

在特会を生み出す背景 ― 疎外された若者たち

 在特会の活動に共鳴する人々の主張からは、自身の生活に対する不安や不満、将来への閉塞感が透けて見える。安田氏は、そうした若者たちに長期的な取材を行い、彼らの思いや背景にある心情を丁寧に描写している。

 彼らの言動の根底には、経済的格差や不安定な雇用環境、そして何より社会からの疎外感が存在する。そして、それらは「承認欲求」という形で表出している。他者から認められたい、社会の一員として受け入れられたいという切実な思いが、彼らを過激な行動へと駆り立てているのかもしれない。

 安田氏は、在特会に批判的な視点を持ちながらも、彼らの人間的な側面や心の奥にある孤独や苦悩に対して誠実に向き合おうとしている。それは取材者としての冷静さと同時に、理解者であろうとする姿勢でもある。

 一方で、彼らの不満の根底に経済的・社会的な困難があるのだとすれば、在特会やその支持者たちが、なぜ労働問題や社会格差の是正といった方向に関心を向けなかったのかという疑問が残る。実際、在特会やネット右翼的な言論においては、こうした問題が真剣に取り上げられることはほとんどない。むしろ、彼らが影響を受けたとされる保守的な言説の中では、経済格差は「自己責任」として処理され、それ以上の議論が展開されることは少ない。それでも彼らは、保守派や右翼的言論に傾倒していく。

 保守思想は基本的に、経済において自由市場を重視し、国家の介入や再分配を嫌う立場をとる。そのため、自助努力や自己責任が強調されるのであるが、もし個人の困難を「社会の仕組み」ではなく「誰かのせい」と捉えることができれば、自らの責任を外部に転嫁することが可能となる。

 こうした中で、複雑な社会構造の中にある本質的な問題を捉えきれない若者たちにとって、ネット上の保守的・排外的言説は、状況を理解するための手がかりであると同時に、自身の不満をぶつける「対象」を提供するものとなった。「愛国」という言葉が持つ大義名分のもとで、排外的な感情や差別的言動に一定の正当性を見いだす構図が形成されていったのである。

 また、ネット空間では特定の意見に閉じこもりやすく、情報の真偽を見極める力、すなわち情報リテラシーの欠如が誤解や偏見を助長する一因となっている。簡単に「敵」を設定することで、自らの苦境の原因を単純化し、そのことで自己のアイデンティティを支えようとする構図は理解できる側面もある。

 つまり、彼らが特定の集団に敵意を向けたのは、単に「そうすることが正しいと信じていた」というよりも、「そうすることでしか、自身の境遇に意味を見いだせなかった」と言えるのではないだろうか。

 現代の先進国においては、差別や憎悪の扇動が社会的にどれほど重大な問題かが、繰り返し論じられてきた。その自覚が薄いまま行動を起こす人々の姿には、失望を感じるが、彼ら自身もまた自己と社会の関係を適切に捉えられない、もどかしさや苛立たしさを感じているのだろう。

 しかし、そうした背景を理解することと、それを容認することは別の問題だ。どのような境遇に生きるものであっても、一定の倫理的な一線というものは存在するはずだ。公共の場での差別的な言動や暴力的なスローガンの連呼は、いかなる理由があれ、容認されるべきものではない。とりわけヘイトスピーチは、国際的にも厳しく批判される行為であり、民主主義社会の根幹を揺るがすものだ。それは決して「社会のせい」で許される行為ではない。

日本の未来は。。。

 こうした過激な運動は、経済的な停滞や若年層の生活不安など、社会的背景に大きく影響されている。だからこそ、景気の回復とともに沈静化するだろうという見方には一定の説得力がある。実際に、安定した生活基盤が得られることで、極端な思想に傾く余地は小さくなるのかもしれない。

 とはいえ、経済状況だけでは片づけられない問題もある。どのような時代でも、社会が抱える構造的な矛盾や、人々の不満が特定の集団に向けられる危険は常に存在する。こうした状況においてこそ、教育や公共的な言論の役割が問われる。

 さて、この記事の冒頭に引用した台詞に戻りたい。これは、本書の冒頭で紹介されている在日朝鮮人の青年の言葉である。

 在日の人々の中に、たとえ一部であったとしても、このように冷静かつ前向きに状況を受け止めている人がいることに、ひとまず安堵を覚える。在日の人々のほうが、むしろ現実に根ざした生活を送り、その中で精神的な余裕を持っているようにさえ感じられる。

 それに対して、日本社会の側はどうだろうか。景気がよければ浮かれ、不動産投機に熱中し、不況になればその不満を差別的言動として他者にぶつける。このような振る舞いを見るにつけ、社会の成熟度とは経済状況の良し悪しによって決まるものではないのだと、つくづく感じさせられる。

 1990年代末頃から高まった保守的な言論や「日本人の誇り」といった言葉も、結局のところ、日本社会の成熟や民度の向上にはほとんど寄与しなかったのではないか。今の日本に、「信ずべき日本」という像は、果たして残されているのだろうか。

安田浩一『ネットと愛国』(2012)

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