読書案内
津田大介『ウェブで政治を動かす!』(2012)
若者の選挙離れ
2012年刊行。
本書の冒頭で結構衝撃的な数字が出てくる。曰く、国政選挙の投票率は、この10年近く、20代の投票率が40%を切っている。一方70才を超える人々の投票率は80%近くを維持している。2009年の第45回総選挙における投票者の年齢は、53歳が中央値となっている。。。
投票率だけ見れば、日本はすさまじく「少子高齢化」が進んでいることになる。少子高齢化で有権者の年齢中央値が高くなりつつあるのに、実際の投票者の年齢中央値はさらにそれを上回って高くなっているわけだ。若い世代の「投票離れ」をまさに示した数字だといえる。
現在の政策や税制は、明らかに高齢者を優遇するものになっていると言われて久しいが、官僚も政治家もこのような投票の分析結果を見れば、当然高齢者優遇政策に偏らざるを得ないだろう。
決して無駄にはならない投票行動
多くの若者は自分が投票へ行ったところで現実は何も変わらない、自分の一票が大きな違いをもたらすわけではないと考えているのかもしれない。確かに一票が選挙結果に与える影響というのは小さいかもしれない。だが、実際は、有権者の投票行動は、情報として集積され、ビッグデータとして解析されている。
小選挙区制度が導入されて死に票が多くなったといわれているが、結果につながらなかった票も投票結果の分析にはきちんと反映され、次の選挙対策の参考にされている。大差で勝ったのと僅差で勝ったのとでは、その後の政局運営や政策決定に大きな違いがある。投票に行ったという行動は決して無駄にはなっていない。
その意味で「死に票」は存在しない。すべての投票が政策に影響を与えている。
若い世代は、自分の一票で結果は変わらないと投票を短絡的に考えているのかもしれないが、たとえ選挙結果が変わらなかったとしても、投票行動自体が持つ重みを軽く見るべきではない。
しかし、そうは言っても実感が湧かないのは確かかもしれない。自分でも理屈では分かっているが、選挙というものは非常にわずらわしく感じる。
特に日本の場合では、選挙期間は、非常に不快なものだ。選挙カーに乗って騒音を撒き散らして、ただひたすら自分の名前だけを連呼するような、他の国では見られない、全く意味のない選挙活動が、相も変わらず続いている。それを何の疑問も感じずに、そして何の羞恥心もなくできる政治家、候補者たちの感性というのが、すでに常識人の感覚からすれば「いっちゃってる」のであって、そういった連中自体をそもそも信頼できない。選挙の度に政治への不信感を強めてしまう。
若い世代の投票離れには、破廉恥かつ無意味で、十年一日で全く変えようとしない選挙活動のあり方も影響していると私は思う。
代議制の欠陥を補う手段としてのインターネット
選挙では自分の意見は反映されないと考えている人は年々多くなっている。特に若い世代ではそうだろう。それは投票率に如実に表れている。地方選挙なんて今や惨憺たるものだ。
選挙は、規模が大きくなればなるほど、民意を表現するには極めて大雑把で荒すぎる手段になっていく。だが、よりきめ細かく民意を汲み取る方法があれば、有権者の政治への意識も変わっていくと思う。
そして、今の情報技術の発展は、こうした選挙結果からだけでは汲み取ることの難しかった有権者の声を可視化することを容易にした。今まで表に出てこなかった、あるいは、切り捨てられていた意見まで、すべての意見を集積することが技術的には可能になった。膨大な量の情報を解析して、それを社会で共有できる技術的環境も整いつつある。そして、ネットにさえつながっていれば、その情報を誰もが即座に手にすることができる。
情報技術は、大量の情報を集積し、それがどのような傾向を持つものなのかを解析する能力に優れている。要するに、ネットはビッグデータを取り扱うことに非常に優れたツールなのだ。
ネットの発展は、選挙結果だけが政局を決定し政策決定に影響を与えてきた政治から、有権者の多様な意見のあり方そのものが直接的に政治に影響を与える時代に変えようとしている。
選挙結果が全てだといわんばかりに、代議士個人の意見が国民の意思の反映だといった思い上がった考えの政治家は今でも非常に多い。そして、そうした政治家に対して対抗する手段は、事実上、次の選挙まで何もなかった。
しかし、「代議制=民主主義」ではない。代議制はあくまで民主主義を実現するための一つの手段であって目的ではない。歴史的な経験の中で試行錯誤しながら、「差し当たって」民主主義を実現する上で最適な制度として選ばれているだけだ。
だが、実は代議制は、政治そのものが職業化して政治家であることそれ自体が自己目的化すると、簡単に形骸化していくものだ。
代議士は有権者からの信任を受け、彼らの意見を代弁しているにすぎない。だが、この信任の意味が曲解され、代議士個人の意見が民意そのものであるかのようにみなされると、代議士の私的な意図が民意へとすりかえられてしまう。
選挙が終われば、国民の声や批判は政治家へは届かなくなる。日本の政治ではしばしば起こることだ。実際に、選挙公約は簡単に破られ、政策方針はころころと変わり、選挙前には、政党の鞍替えや政党そのものの再編成が頻繁に起きる。。。代議士そのものへの信頼はこのようにして崩壊していく。
そして、選挙で既得権益層の組織票ばかりが幅を利かせるようになると、選挙は形骸化する。そのような選挙の下では、政治家たちにとって、政治家になること自体が自己目的化している。その結果、政治は職業となり、さらには「家業」へと変貌していく。
議会制代議制度は、こうも簡単に制度疲労を起こしていく。だとすれば、代議制を批判、修正していく補助的手段が必要になるのは当然だろう。
ネットは、代議制度の欠陥を補うだけの技術を可能にした。あとは、それを実用化していくための制度を整えていくだけだ。法的な整備ももちろん必要になるだろう。
透明性と自由参加を可能にするネットの可能性
本書では、ネットを使ってどのようにして政治へ働きかけるか、さまざまな試みが紹介されている。
著者は、著作権問題にかかわった経験から「審議会」という少数の利害関係者の間だけで法案が決められていく不透明な仕組みをネットによって公開性の高いものへと変えていく必要性があると訴えている。ネットを使って公開し、広く意見を集めることで、一部の利害関係者の意見だけが反映されてしまう状態を改め、多様な意見が政策決定に影響を与える仕組みを作る必要がある。
しかし、今現在では、個人や民間企業、NGOなどの組織が個別にネット上で政治参加の道を探る活動を行っているだけで、国全体を巻き込む議論にはなっていない。
ネットで政治を動かす、という試みはさまざまに議論されているが、具体的にどのような制度に落とし込んでいくのかは、まだまだ手探りのようだ。さまざまな試みが紹介されていても、著者自身がネットによって政治を動かしていくということの方向性がまだ見えていないようで、全体的な像がぼやけてしまっている。
本書で紹介されていることも、SNSを利用したネット世論の形成やデモへの呼びかけ、政治家のTwitter利用やBlogを通じた有権者との直の意見のやり取り、といった内容にとどまっていて目新しさに欠ける印象だ。
興味深かった点も上げておくと、政治家は市民と行政をつなぐメディアであるという考え方やロンドンのYou Chooseといった海外のオープンガバメントの試みなどは、今後の方向性や可能性を示唆しているようで非常に刺激的な議論だった。
国民が選挙というほとんど唯一の意思表示の機会しか持てなかった時代は終わろうとしている。少なくともそのような流れが起きつつあることを知るためにも、本書は一読の価値があると思う。