拡大の一途を辿る裁量労働制
裁量労働制は、1987年の労働基準法改正によって導入された制度である。この制度では、実際の労働時間にかかわらず、あらかじめ労使間で「みなし労働時間」を設定し、その時間を働いたものとみなす。建前上は、労働時間に関して労働者に一定の裁量が認められる仕組みだ。
本来、裁量労働制は「成果が労働時間に比例しない業務」、たとえば研究職や企画職などに限定して適用されるものであり、時間ではなく成果で評価される働き方を可能にするという理念があった。柔軟な働き方を促進するという点では一定の合理性がある。
しかし、その一方で、労働時間の実態が把握されにくくなることから、制度の悪用によって長時間労働が常態化する危険性もはらんでいる。実労働時間がどれほど長くても、あらかじめ定められた時間を超えて賃金が支払われることはなく、結果として残業代の支払いを回避する手段として使われてしまう恐れがある。
制度導入当初は、適用対象はごく限られた専門職に限定されていた。しかしその後、行政による拡大解釈や業界からの圧力により、対象業種は徐々に拡大されていった。制度の理念とは裏腹に、労働者保護の観点よりも企業の利便性が優先され、裁量労働制は「働き方の自由化」というより「管理の手を緩めた長時間労働の温床」となっている側面が強まっている。
現在、適用されている業種は、以下の通り。
1. 新商品若しくは新技術の研究開発又は人文科学若しくは自然科学に関する研究の業務
2. 情報処理システム(電子計算機を使用して行う情報処理を目的として複数の要素が組み合わされた体系であつてプログラムの設計の基本となるものをいう。(7)において同じ。)の分析又は設計の業務
3. 新聞若しくは出版の事業における記事の取材若しくは編集の業務又は放送法(昭和25年法律第132号)第2条第4号に規定する放送番組若しくは有線ラジオ放送業務の運用の規正に関する法律(昭和26年法律第135号)第2条に規定する有線ラジオ放送若しくは有線テレビジョン放送法(昭和47年法律第114号)第2条第1項に規定する有線テレビジョン放送の放送番組(以下「放送番組」と総称する。)の制作のための取材若しくは編集の業務
4. 衣服、室内装飾、工業製品、広告等の新たなデザインの考案の業務
5. 放送番組、映画等の制作の事業におけるプロデューサー又はディレクターの業務
6. 広告、宣伝等における商品等の内容、特長等に係る文章の案の考案の業務(いわゆるコピーライターの業務)
7. 事業運営において情報処理システムを活用するための問題点の把握又はそれを活用するための方法に関する考案若しくは助言の業務(いわゆるシステムコンサルタントの業務)
8. 建築物内における照明器具、家具等の配置に関する考案、表現又は助言の業務(いわゆるインテリアコーディネーターの業務)
9. ゲーム用ソフトウェアの創作の業務
10. 有価証券市場における相場等の動向又は有価証券の価値等の分析、評価又はこれに基づく投資に関する助言の業務(いわゆる証券アナリストの業務)
11. 金融工学等の知識を用いて行う金融商品の開発の業務
12. 学校教育法(昭和22年法律第26号)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)
13. 公認会計士の業務
14. 弁護士の業務
15. 建築士(一級建築士、二級建築士及び木造建築士)の業務
16. 不動産鑑定士の業務
17. 弁理士の業務
18. 税理士の業務
19. 中小企業診断士の業務
なんの冗談だろうか?もう笑うしかない。政府が恣意的な拡大解釈を続けて、適用される業種が拡大の一途を辿っている様がよくわかる。
「企画業務型」裁量労働制の導入
既存の「専門業務型」裁量労働制だけでは不十分だと判断されたのだろう。政府は1998年、労働基準法をさらに改正し、「企画業務型」裁量労働制を導入した。これにより、特定の専門職に限定されていた裁量労働制は、業種にかかわらず、企業の中核で「企画・立案・調査・分析」などを行う労働者にも適用可能となった。
この制度改正は、「みなし労働時間」の適用対象が着実に拡大していく過程を象徴している。裁量労働制の本来の趣旨から乖離しながらも、企業側にとって都合の良い形で制度が広がっていく様は、まさに労働者派遣法の歩みと酷似している。
たとえば、労働者派遣法も、当初はごく限られた専門職にのみ適用されていた。しかし、法の成立後は次第に規制が緩和され、1999年には原則としてすべての業種(港湾運送、建設、警備、医療、製造を除く)で派遣が解禁され、2004年の改正ではついに製造業への派遣も認められるようになった。制度が一度法制化されれば、あとは段階的に適用範囲を広げていく——この構図は裁量労働制でも繰り返されている。
こうした経緯を見れば、自民党政権およびそれを支える経団連などの業界団体が、制度をまず法制化し、その後は「規制緩和」の名のもとに拡大していくという手法をとってきたことは明白だ。制度の趣旨が労働者保護であるにもかかわらず、実際には企業側の要望に「忖度」し、制度を労働者に不利な方向へと転用してきた。
こうした政府の姿勢は、労働者を守るふりをしながら、実際には企業の利益を優先している点で、国民に対する“だまし討ち”とも言える行為だ。
そして予想通り、安倍内閣は2016年、「働き方改革」という労働者に優しい印象を与えるスローガンを掲げながら、実際には裁量労働制のさらなる規制緩和を進める法案づくりに着手する。名目は改革でも、実質的には長時間労働と残業代不払いの構造を温存・促進する動きであった。
働き方改革関連法案の内実——労働者保護か、業界への忖度か
2016年、安倍首相を議長とする「働き方改革実現会議」が発足し、働き方改革関連法案の策定に向けた具体的な検討が始まった。この会議が中心となり、労働制度全般の見直しが進められていった。
当初、政府・与党はこの法案に裁量労働制の適用範囲拡大を盛り込む方針だった。ところが2018年2月、厚生労働省が裁量労働制の拡大を正当化するために示した調査報告に、重大な問題が発覚する。立憲民主党の長妻昭議員が資料を精査した結果、報告に使われたデータの信憑性に疑義が生じ、調査の不備やねつ造、誤解を招く表現が次々と明らかになった。
この問題を受け、野党は厚生労働省による調査の再検証を求め、事態は一気に政争の場へと発展する。報告内容の改ざん、誤記、捏造の疑いなどが次々と浮上し、「裁量労働制ありき」でデータが恣意的に作成された疑念が強まった。
しかし、こうした一連の問題に対して、政府や官僚のあいだでは誰も明確な責任を取ろうとせず、曖昧なまま事態は推移していく。この姿勢は、政策決定プロセスにおける説明責任の欠如を象徴するものでもある。
にもかかわらず、安倍首相は「裁量労働制の拡大が実現できなければ、法案全体が成立しない」と強気の姿勢を崩さなかった。これは、裁量労働制の規制緩和を、残業時間の上限制定など他の改革と「抱き合わせ」にすることで、反対を封じ込めようとした姿勢とも読み取れる。いわば「働き方改革関連法案」が“抱き合わせ法案”と呼ばれる理由がここにある。
また、経団連などの業界団体の意向を強く反映してきたとされる安倍政権の姿勢を踏まえれば、この法案が「労働者のため」ではなく、「企業のため」に構築された可能性は否定できない。「働き方改革」という耳障りの良いスローガンの背後に、労働者の保護ではなく、企業側の利便性追求という本音が潜んでいたと見るのは、決して穿ちすぎた見方ではない。
結局、世論の批判が高まり、2018年4月には裁量労働制の規制緩和部分が削除されたかたちで、「働き方改革関連法案」は閣議決定され、国会に提出されることとなった。
だが、この時点でまだ「高度プロフェッショナル制度」という、さらなる“抜け道”が残されていたのである——。
(次回へ続く)
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