読書案内
森岡孝二『雇用身分社会』(2015)
格差社会ニッポン
2013年に厚生労働省が発表した「国民生活基礎調査」によると、2012年の日本の相対的貧困率は、16.1%となっている。
この相対的貧困率とは、等価可処分所得(一人当たりの可処分所得)が中央値の半分に満たない人口比率のことで、12年の中央値は、244万円となっているので、年間所得が122万に満たない人々が、国民全体の16.1%もいる、ということなる。
相対的貧困率は、85年が12.0%で、その後ほぼ一貫して上昇してきている。この間、子供の貧困率(17歳以下)も85年の10.9%から12年の16.3%まで、同様にして上昇し続けている。
さらに問題なのは、日本の場合、税や公的給付による貧困改善率が著しく低い、という点だ。OECDの2000年のデータに基づく調査によると、日本の貧困改善率は、わずか3.0%で、改善後の貧困率が13.5%となっている。
ちなみに社会保障が低いと言われているアメリカは、貧困改善率が4.3%、改善後貧困率は13.7%だ。日本の貧困改善率は、アメリカにさえ劣っているのだ。これは税制や社会保障制度による所得の再分配機能が、日本では全く働いていないことを示している。
ついでに他の国の場合を見ていくと。。。
フランス 改善率18.1%、改善後貧困率6.0%
ドイツ 改善率12.5%、改善後貧困率8.0%
スウェーデン 改善率11.0%、改善後貧困率5.1%
イギリス 改善率11.2%、改善後貧困率8.7%
。。。と、なっている。
「低福祉低負担」と言われるアメリカやイギリスにさえ劣る改善率。。。日本の「低福祉高負担」という実態が明確に数字に表れている。
雇用身分制社会ニッポン
90年代以降、徐々に広がりを見せているこのような所得格差の背景には、労働・雇用環境の変化があることは、もうありとあらゆるところで指摘されているので、今更ここで付け加えることもないのだけれど、やっぱり本書を読むと、非正規雇用の拡大が最大の要因だな、ということを改めて実感する。
ここで「雇用身分社会」という言葉を使う理由は。。。
・業務内容や職責ではなく、雇用形態に基づく不当な労働条件や待遇の差別が存在するということ。
・雇用形態の流動性が少なく、固定されている傾向にあり、それに基づく待遇差別が正当化されいる。
といった点にある。まさに現代の身分社会だ。
戦前の「人材派遣業」
本書の一番の特色は、『女工哀史』(1925)や『職工事情』(1903)などの資料を用いて、戦前の職業身分制を紹介している点だ。
当時の労働環境が劣悪であったであろうことは、容易に想像がつくのだけれども、やはり数値を示しながら具体的に状況を見ていくと、その酷さに改めて驚かされる。
紡績、製糸、織物などの工場で働く職工は、そのほとんどが、募集人(仲介業者)によって集められている。ようするに、「人夫出し」だ。
彼らが職工を集める手段は、さまざまな「甘言」を用て、虚偽の労働条件や内容を教えたり、家族に前金を与えて人身売買同様の手段を用いたり。。。と、悪質な手法が目立つ。
このような仲介業者は、職工の日給が平均約20銭(女工)、30銭(男工)だった時代に、職工一人につき約1円の仲介料を得ていた。
仲介業者が斡旋するため、雇用関係も工場と労働者の直接的な関係ではなく、工場と募集人との間の契約関係になっていた。
なーんてことない、今の派遣業とまったく同じである。驚くほどそっくりなので、もう怒りを通り越して笑えて来る。
多くの人々は、現代の日本の派遣業者はさすがに前金を渡した人身売買のような手段はとっていないと思っているのかもしれないが、国外では平然と行われている。それが世界でも名高い日本の「研修制度」というやつだ。留学費用、渡航費用、現地生活費などの名目で借金させて日本に送り込む。
国内では、ものすっごい明るいテレビCMで募集(甘言)、国外では留学費などの前金(人身売買まがい)、そして職場では、職務内容、職責とは何ら関係のない、雇用形態のみに基づいた不当な労働条件(雇用差別)。。。
まーったく、戦前と同じ。驚くほど何も進歩していない。歴史を全く反省しない、まさに日本人の在り方そのものだ。
著者は、労総者派遣法の改正で、派遣業が事実上全面解禁になった事実を指して、戦前の雇用形態が復活していると指摘しているが、これはちょっと違う。
日本で雇用身分制社会が解消されていた時代など一切ない。ただ高度成長の中で問題が顕在化しなかっただけだろう。女性や若者に対しては、パートやアルバイトという形で雇用形態に基づく待遇差別は存在してきたし、正社員に関しても女性に対しては、「一般職と総合職」「職員と臨時職員」といった根拠のない区分を設けて、雇用身分制を維持してきた。日本の戦後の歴史のなかで、「同一労働同一賃金」が一般的だった時期など一度もない。
その意味で、日本の雇用身分制社会は、戦前から一貫して続いてきているのだ。
日本の経営は、東電や東芝の不祥事を見ても分かるように、責任の所在が曖昧で誰も責任を問われない、企業統治が未熟、といった「中心不在」「責任主体不在」の戦前の官僚組織や日本軍とまったく変わらない組織の有り様を露呈しているけれども、それは末端の労働者の扱いにおいても全く変わっていない、ということだ。
歴史から何も学ばない国民、なんら過去を反省しない国民、まったく百年一日で進歩しない倫理観。。。これがニッポンという国なのだろうか。いいかげん、日本人も目を覚ます時だと思うのだが。。。大丈夫なんだろうかこの国は。