ヒトラーとナチスに揺れるドイツ – ポーランド局地戦は、なぜ世界大戦へと発展したか?

真珠湾攻撃(出典: Wikipedia

歴史の「なぜ」を考える―――
 ヒトラーとナチスに揺れるドイツ(全4回)第4回

 第1回 第2回 第3回

第二次世界大戦の勃発

局地戦として始まったポーランド侵攻

 1939年9月、ヒトラーはかねての予定通り、ポーランドへ侵攻する。

 独ソ不可侵条約を結んだヒトラーは、英仏が軍事介入することはないと想定していた。実際、ドイツ軍のポーランド侵攻直後、チェンバレンとダラディエは、ドイツとの会談による紛争解決を目指そうとした。だが、イギリス議会の反対にあい、ポーランド侵攻の3日後、イギリス政府はドイツへの宣戦を布告。同日、フランス政府もイギリスに続いて、ドイツへ宣戦布告した。

 こうして第二次世界大戦が勃発した。だが、この呼び名は後世の歴史家が与えたものだ。ヒトラーは当初、ポーランド侵攻を局地戦で終わらせる計画だった。だが、そうした思惑とは裏腹に戦線は拡大していった。

 なぜ、ポーランドの局地戦は、世界大戦へとつながっていったのだろうか。

奇妙な沈黙

 英仏との戦闘を想定していなかったヒトラーは、ポーランドを電撃作戦で早期に制圧し、占領を既成事実化することで、英仏にポーランド占領を認めさせ、英仏との戦闘を避けようとした。
 そのため、ヒトラーは、独ソ不可侵条約の秘密協定に基づきソ連に対し、ポーランドへの侵攻を要請。9月17日、開戦から2週間余りで、ポーランドは独ソ間で東西に分割され、占領された。

 一方の英仏両政府も対独宣戦布告以降、戦闘を開始しなかった。ドイツ国内の反ヒトラー勢力に働きかけ、ヒトラー失脚後にドイツと和解するという方針を採り、全面戦争へ発展することを避けようとした。

 このような英仏両政府の動きを見て、ヒトラーはポーランド占領完了後の10月、英仏との講和を呼びかける。だが、ヒトラーの対外侵略を幾度となく見てきた英仏両政府はこの講話の呼びかけを拒否。

 ヒトラーは、この結果を受けて、英仏との全面戦争を決意するに至る。西部戦線への侵攻は翌11月と決定されたが、英仏との戦闘準備が整っていなかったドイツ国防軍は、翌年1940年5月まで戦闘を延期する。この間、英仏とドイツの間で沈黙が続くことになる。

ノルウェー侵攻とフランスの陥落

 年が明け、1940年4月、ヒトラーは、デンマーク、ノルウェーへ侵攻、電撃戦を開始した。ノルウェー沿岸地域はスウェーデン産の鉄鉱石を輸出するための港湾都市があり、軍事戦略上重要な地域だった。イギリスとの戦闘を想定していたヒトラーは、対イギリス戦を前にこの地域を確保する必要があった。
 デンマークはドイツ軍侵攻後、即時に停戦。ノルウェーは徹底抗戦の姿勢を示した。英仏軍はノルウェーに対し援軍を派遣したが、ドイツ艦隊が先にノルウェー上陸を果たし、さらに制空権を確保した。

 翌5月、ヒトラーは、ノルウェー侵攻を優位に進めると、すかさずオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を開始。ベルギーとマジノ要塞で英仏連合軍と対峙、戦闘になった。
 ヒトラーは、この隙に、ルクセンブルクとアルデンヌの森を抜けて、フランスへ侵攻、ダンケルクを占領した。

 5月中にドイツ軍はベネルクス三国を占領、6月にはノルウェー占領も完了した。6月10日、ドイツ軍の優勢を見て、イタリアが英仏へ宣戦布告。

 イタリア参戦で劣勢に立たされたフランスは、ドイツ軍にパリへの無血入城を許すことになった。フランスのポール・レノー内閣は総辞職し、新政府のペタン元帥はドイツと休戦条約を調印した。
 パリを含む北部フランスは、ドイツ軍によって占領された。このフランス侵攻は、ドイツ軍による電撃戦の最大の成功例と言われている。

対英戦継続と日独伊三国同盟の成立

チャーチルの徹底抗戦

 ヒトラーはフランスの占領が完了し、西部戦線が終結したことで、連合軍との戦争は終了するものと考えていた。フランスが敗北した以上、イギリスが戦争を継続するはずはないと見ていた。
 だが、この目論見はチャーチルによって打ち破られる。

 1940年5月にチェンバレンから代わって、首相に就任したチャーチルは、対独戦継続の意思を示す。

 7月、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦を計画。9月実行と定めた。8月からドイツ空軍は、制空権確保のため、対英空襲を展開。だが、対英戦を想定していなかったドイツ空軍は準備不足が露呈し、制空権確保に至らなかった。このため、9月、ヒトラーはイギリス本土上陸を延期せざるを得なかった。

 ポーランド侵攻を局地戦で終わらせようとしたヒトラーの当初の作戦はその目算が外れ、ドイツ軍の戦闘は、いまやイギリスとの長期戦へと拡大していた。
 対英戦が長引いた場合、ヒトラーが次に恐れなければならなかったことが、アメリカの参戦だった。そこでヒトラーは、アメリカを牽制し、イギリスを孤立化させるために、日独伊による三国同盟の結成を画策する。

対米牽制と日独接近

 1940年9月、ドイツ特使スターマーが三国同盟締結のために、東京へ派遣された。
 1939年以降、日独間の交渉は進展していなかった。さらに独ソ不可侵条約の成立によって対独不信が高まり、阿部内閣、米内内閣ともに中国権益をめぐってアメリカとの交渉を優先させた。
 だが、アメリカは中国の門戸開放を原則とし、日本の中国進出を一切認めなかった。アメリカとの交渉が暗礁に乗り上げていた1940年半ば頃、ヨーロッパでは、ドイツ軍がヨーロッパ各地を占領。連合軍に対してドイツ軍が圧倒的優勢という状況が生まれていた。

 7月に近衛内閣が発足すると松岡洋右が外相に就任。連合軍の対独敗戦という状況を見て、日本政府は方針を転換し、日独提携強化を図る。
 日本政府の意図は、連合軍がヨーロッパ戦線において敗北している隙に南進し、フランス、オランダの東南アジア植民地を占領することにあった。これにより、泥沼化する日中戦争の終結と日本の生存権確保を図ろうとした。

 このようにして、日独の対米牽制の意図が合致し、1940年9月、日独伊三国同盟が実現した。

 ヒトラーは、10月、イギリス孤立化を図るためにさらに、スペインのフランコ政権、フランスのペタン政権に反英連合結成を働きかける。しかし、この構想は両政府から拒否され、失敗に終わる。

独ソ戦から真の世界大戦へ

独ソ協調体制の崩壊

 ソ連は、ポーランド占領後、バルト三国へ勢力圏拡大を図っていた。独ソ不可侵条約には、東欧諸国を独ソの勢力圏として分割する秘密議定書が含まれており、それに従い、ソ連が東欧へ侵攻を開始した。
 1939年9月、バルト三国と相互援助条約締結。11月、フィンランドへ侵攻し、ソ・フィン戦争が勃発する。1940年3月に停戦合意。

 1940年6月、フランスの敗北を受けて、ソ連は勢力圏の拡大を急ぐようになる。それは、西欧諸国全体がドイツの勢力下におかれるようになれば、次にナチスが侵攻の対象とするのはソ連に他ならなかったからだ。ナチスが西欧諸国を制圧した際には、独ソ不可侵条約が何の保障にもなり得ないことは明らかだった。

 スターリンは、ソ連の勢力を東欧諸国へと拡大してドイツ侵攻に備えるようになる。1940年6月、ルーマニアのベッサラビアを占領、8月にバルト三国を占領した。

 ソ連による勢力圏拡大に対し、ナチス・ドイツ側も警戒感を強めていった。特に、ルーマニアの石油資源をめぐって独ソ関係は悪化した。

 この頃からヒトラーは、1940年6月のフランス占領以降もイギリスが停戦協定に応じない理由は、独ソの協調体制にあるのではないかと考えるようになる。ソ連及び共産主義への警戒感が、イギリスの徹底抗戦につながっているのだとすれば、イギリスの抗戦を断念させるためには、ソ連を征服させる必要があるとの考えに至っていた。
 7月には、対ソ戦を示唆。ソ連に対する対外戦略を変更していった。

 12月、ヒトラーは、「バルバロッサ」作戦と呼ばれる対ソ攻撃戦を計画。
 1941年3月、バルカン半島へ侵攻、さらに6月、独ソ戦が開始される。

アメリカの参戦 – 真の世界大戦へ

 1941年12月、独ソ戦が泥沼化する中、極東では真珠湾事件が起きる。日米の開戦は、アメリカの対独参戦への道を開くことになった。
 ドイツはこの時、対米戦の意図はなく、その準備も整っていなかった。だが、対ソ戦に日本の協力が不可欠であったヒトラーは、対米戦回避よりも三国同盟の維持の方を選択した。同月、ドイツとイタリアは、対米宣戦を布告、ここに第二次世界大戦は、真の意味で世界戦争へと発展した。

 ヒトラーは、1939年9月のポーランド侵攻当初から、イギリスとの全面戦争を回避するため様々な戦略をとった。独ソ不可侵条約の締結、フランス侵攻、三国同盟結成、対ソ開戦、すべては、イギリスに対独抗戦を断念させ、ドイツの大陸支配を承認させることが目標だった。
 日本政府もまた、満州国を建設し、中国へ進出した当初から、アメリカとの戦争回避ために様々な道を模索していた。対独接近、南進政策、これらすべては対米牽制のための手段だった。

 しかし、日本もドイツも結局は、米英との全面戦争を避けることはできなかった。それは、日独が海外権益の拡大を目指す限り、いずれは避けられないもので、時間の問題だったと言える。ナチス・ドイツがヴェルサイユ体制に挑戦し、対外膨張策を採っている限り、イギリスとの和解は、はじめからあり得なかった。日本もまた、中国の権益を主張している限り、アメリカとの対立は避け得るものではなかった。

 連合軍との全面戦争を避け、局地戦で終わらせようとした日独伊は、そのさまざまな外交戦略にも関わらず、すべてが水泡に帰し、世界的な大戦へと突き進んでいったのだった。

参考図書
野田宣雄『ヒトラーの時代』文春文庫