スペイン内乱におけるイタリア軍(画像出典: Wikipedia)
歴史の「なぜ」を考える———
ヒトラーとナチスに揺れるドイツ(全4回)第2回
第1回 第3回 第4回
ナチスドイツの国際的孤立 – 対独包囲網の形成
ミュンヘン一揆により投獄されていたヒトラーは、1924年末に釈放され、翌年にはナチスを再建した。
1928年、ナチスが国政へ初めて進出。1933年1月には、ヒトラー内閣が誕生した。
ナチスは、1933年2月に起こった国会議事堂放火事件に乗じて共産党を弾圧。翌3月には、ヒトラーへの全権委任法が成立した。同年7月、新党新設禁止法を制定し一党独裁体制を確立して、国内の対抗勢力をすべて掌握した。
そして、1934年6月、ナチス党内でヒトラーに対抗していたレームをはじめとしたナチス突撃隊(SA)幹部を粛正。党内での絶対的な地位も確立した。
こうして、1934年後半までには、国内でヒトラーの地位を脅かす存在はいなくなっていた。
ヒトラーは、国内での独裁体制が確立してくると、外交面においても積極的な対外政策を打ち出していく。
ヒトラー政権は当初、ヴァイマル政権下の外交路線を踏襲していた。1933年2月の軍縮会議に出席し軍縮に同調。同年5月にはソ連とベルリン条約の延長を行い、翌6月にはイギリス、フランス、イタリアとの四カ国条約を締結するなど、東西両陣営に融和的な姿勢を見せていた。
しかし、1933年秋頃から、国内の独裁体制が固まり始めるとともに、対外戦略も転換。ヒトラーの積極的な外交政策が始まる。
1933年10月、ナチス・ドイツは国際連盟および軍縮会議から脱退。
翌1934年1月にはポーランドと不可侵条約を締結。この条約によってヒトラーは、ポーランドと同盟関係にあるフランス、さらにその背後に控えるソ連の動きを牽制し、オーストリアおよびチェコスロヴァキアへの南進の布石とした。
ヒトラーにとって、オーストリアとの合邦は最重要の対外政策であったが、不可侵条約の締結はかえってフランスやソ連の警戒心を高め、とくにソ連との友好関係を破綻させる結果となった。
1934年7月、オーストリアで「ウィーン蜂起」と呼ばれるクーデター未遂事件が発生。これは、ナチス・ドイツとの合邦を主張するオーストリア・ナチス党員によるもので、その背後にヒトラーの関与があったことは明らかだった。この事件を受けて、国際社会はナチスの対オーストリア政策に対し強い非難を浴びせ、特にムッソリーニは強硬な反対姿勢をとり、オーストリア国境付近に軍隊を派遣してナチスの侵攻を牽制した。
この結果、ヒトラーの南進政策はいったん阻止されたが、1935年3月には再び攻勢に出る。ナチス・ドイツは、再軍備を宣言。ドイツ空軍の存在を公表、徴兵制を復活させ、軍隊の増強を決めた。これらすべてがヴェルサイユ条約に対する違反行為であった。この時点で、ヒトラーは、ヴェルサイユ体制に対して公然と反旗を翻すことになった。
ヒトラーが積極外交へ転換し、ヴェルサイユ体制への公然とした挑戦し始めたことは、当然、国際社会を大きく揺るがすことになった。イギリス、フランス、イタリアの三国は、ムッソリーニを議長としてドイツの再軍備に対する対抗措置を協議。1935年4月、英仏伊三国による「ストレーザ戦線」を結成した。
一方、ドイツの対外政策に警戒感を強めたソ連も、外交戦略を対独牽制へと舵を切っていくことになる。1935年5月、仏ソ相互援助条約締結、さらに、ソヴィエト・チェコスロヴァキア相互援助条約締結した。
こうして、1935年半ばには、西側に英仏伊によるストレーザ戦線、東側にはフランス、ソヴィエト、チェコスロヴァキアの対独包囲網が出来上がり、ドイツの国際的孤立が明白なものとなった。
一見すると、ナチスの対外膨張政策はここで止まるかに見えた。
しかし、この包囲網は間もなく崩壊し、ドイツは第二次世界大戦へと突き進んでいくことになる。
では、ナチスはどのようにして、この国際的孤立状態を打破していったのだろうか。
イギリスの対独宥和政策
独英海軍協定と軍縮規定の破綻
1935年6月、ナチス・ドイツは、イギリスと海軍協定を締結する。この協定は、艦隊増強と潜水艦の保有をドイツに認めるもので、ヴェルサイユ条約の軍縮規定を破棄する内容だった。イギリスは、ドイツの再軍備を容認したのだった。英仏伊のストレーザ戦線が結成されたわずか2か月後のことだった。
なぜイギリスは、ロンドン軍縮会議の協定を自ら破綻させ、ドイツ宥和政策へと方針を転換したのだろうか。
イギリスの勢力均衡策と対独宥和政策
イギリスの伝統的な外交方針は勢力均衡にあり、第一次世界大戦後においてもイギリス政府の基本的な方針は、ヨーロッパの列強諸国による勢力均衡を回復させることにあった。そのために、敗戦国ドイツの必要以上の弱体化は、フランスとソ連の勢力拡大を牽制するという意味では、好ましいものではなかった。
1931年以降、イギリスでは世界恐慌への対応として挙国一致内閣が成立していた。
その中で、労働党は軍縮と反戦・平和を強く主張し、ドイツを刺激する牽制策は避けていた。1930年代半ばには、イギリス経済は回復の兆しを見せ始め、社会生活にもようやく安定が戻りつつあった。第一次世界大戦と世界恐慌という二つの困難を経験し、疲弊していた国民の間では、この理想主義的な平和主義が広く受け入れられたのも当然と言えるだろう。
一方、保守党もナチス・ドイツに対して強硬策を取ることができず、宥和的な姿勢をとった。
1935年6月に挙国一致内閣の首相に就任したボールドウィンは、ナチスの対外政策は東方進出に向けられており、いずれナチスとソ連が対立すると見ていた。彼は、共産主義の拡大を防ぐため、ナチスを「防共の盾」として利用できると考えていたのである。
その結果、イギリス政府の基本的な外交方針は、ソ連に対抗する意図から対独宥和政策を採ることとなった。この方針は、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻という第二次世界大戦の勃発直前まで、ほとんど変わることはなかった。
ドイツ・イタリア枢軸の成立
ムッソリーニのエチオピア侵攻とイタリアの国際的孤立
帝国主義の下での植民地獲得競争に敗れ、対外膨張的野心を抱いていたのは、ナチス・ドイツだけではなく、イタリアのムッソリーニにもまた同じだった。
ナチス・ドイツが、ヴェルサイユ体制へと真っ向から対決姿勢を示したとき、英仏が宥和的な態度を示したことで、イタリアもまた対外膨張策へと方針を転換する。
1935年10月、イタリアは国際連盟規約を犯して、エチオピアへ侵攻。
国際連盟はイタリアの侵略行為を非難する決議を採択し、イタリアに対し経済制裁を実施する。これにより、ストレーザ戦線は、完全に瓦解し、今度はイタリアが国際的孤立を深める結果となった。
しかし、国際連盟による制裁措置にもかかわらず、イタリアは、1936年5月、エチオピアを併合した。
ラインラント進駐とフランスの無策
このムッソリーニによるエチオピア侵攻は、国際連盟が大国の侵略行為に対していかに無力であるかを白日の下にさらすことになった。
イタリアのエチオピア侵攻を目にして、ヒトラーは、さらに軍事的拡張政策を推し進める。
1936年3月、ヒトラーは、ラインラント進駐を決行する。ラインラントは、ドイツの重要な工業地帯であるルール地方をフランス軍の侵攻から防衛するために、戦略上きわめて重要な地域だった。
ヴェルサイユ条約により、ドイツは仏独国境に近いライン川周辺への軍の展開を禁止されていた。さらに、その一部であるラインラントは、1925年に英仏独の間で締結されたロカルノ条約によって非武装地帯に指定されていた。
このラインラント進駐は、ロカルノ条約違反であり、国際連盟、特にフランスに対する重大な敵対行為だった。
ナチスドイツは、再軍備を始めたばかりであり、当時の軍事力では、フランス軍の方が圧倒的に優位であった。しかし、それにもかかわらず、フランス政府はナチスのラインラント進駐を容認する。
フランス政府の方針は、フランス軍はマジノ線を防衛する自衛のためのものであり、ナチスがラインラントへ軍を駐留させているだけであるなら、対抗措置を取らないというものだった。そして、ラインラント進駐への対応は国際連盟の判断に委ねるとしたが、国際連盟もまた、ドイツに対して何ら制裁措置を講じることはなかった。
こうしてヒトラーは、国際社会からの実質的な抵抗を受けることなくラインラント進駐を成功させ、それが彼の東方侵略政策を加速させる契機となった。
一方、エチオピア侵攻によって国際的孤立を深めていたイタリアは、ドイツへと急接近していく。ドイツの東方進出の第一の課題は、オーストリア併合であり、それに最も抵抗を示していたのはイタリアだった。そのイタリアが、エチオピア侵攻を機に、ナチスのオーストリア併合政策容認へと方針を転換する。
イタリアの後ろ盾を失ったオーストリアは、1936年7月、ナチスとの間に独墺協定を締結する。
この協定は、相互の主権尊重を謳いながらも、実質的にはオーストリア・ナチスの政権参加を容認する内容を含んでいた。ナチスにとってこの協定は、合法的にオーストリア内部から併合を進める足がかりとなったのである。
スペイン内乱と独伊の接近
1936年7月、フランコ将軍によるクーデタ宣言によって、スペイン内乱が勃発する。1931年にスペイン王政が廃止され、共和政が成立して以降、スペイン政府は左右対立が激化し、政権が不安定化していた。だが、1936年2月の総選挙で、右翼政党が敗退、左派が連合した人民戦線政府が成立していた。この政権に反発したフランコの率いる軍部は、クーデタによりファシズム政権の樹立を試みたのだった。
このフランコのクーデタを支援したのが、イタリアとドイツだった。スペイン内乱に介入したイタリアとドイツは、1936年10月に外相会談を行う。この会談で、スペイン問題をはじめ、オーストリア、エチオピア、国際連盟に対する方針について意見の調整を行った。
そして、翌11月には、ムッソリーニはミラノで、ドイツ、イタリア間の外交方針に関する談話を発表する。その中で、ムッソリーニは、「ローマ・ベルリン枢軸」という言葉を用いて、新たな国際平和の基軸とすると述べたのだ。
英仏が対独宥和策をとっていたこと、国際連盟が大国の対外政策に対して無力であること、イタリアのファシスト政権もまたナチスと同じく対外的野心を持っていたこと、こうした国際的状況がドイツとイタリアの接近を容易にさせた。
ここに後の枢軸国の基礎ができ上った。ナチス・ドイツはこうして国際的孤立を脱したのだった。
参考図書
・野田宣雄『ヒトラーの時代』文春文庫
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