六カ国協議の開催
1985年、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟した。だが、それ以降も、北朝鮮は秘密裏に核開発を進め、たびたび条約違反を繰り返してきた。
2002年10月、ウラン濃縮による核開発の事実が明るみに出ると、北朝鮮は翌2003年1月に国際原子力機関(IAEA)からの脱退を宣言し、1994年の米朝枠組み合意を破棄した。
IAEAを離脱したことで、北朝鮮は核開発の再開を公然と宣言し、IAEAの監視によって停止させられていたプルトニウムの生産を再開。これまで秘密裏に行っていたウラン濃縮活動も公然と行い始めた。
事態を重く見たIAEAは、北朝鮮の核開発問題を国連安全保障理事会に付託。アメリカのブッシュ政権は、中国・ロシア両国に働きかけ、周辺関係国を巻き込んだ多国間協議の枠組みを提案。こうして、アメリカ、中国、ロシア、日本、韓国、北朝鮮による「六カ国協議(六者協議)」が開催されるに至った。
北朝鮮の戦略的意図
北朝鮮はなぜ、経済支援を受けられるはずの米朝枠組み合意を自ら破棄し、核開発の再開に踏み切ったのか。
本来、合意を順守していれば、北朝鮮は重油の供与や軽水炉の開発など、日米韓からの技術支援や経済援助を得ることができたはずだ。この合意は、北朝鮮の経済や産業の発展に寄与するはずだった。
だが、問題は、北朝鮮にとっての最大の政治目標が「金一族による独裁体制の維持」にあって、国家の発展にはないという点だった。
北朝鮮の外交姿勢を観察すると、国際条約や国家間合意は本質的に信頼の構築や国際協調のためではなく、自国体制を維持するための「交渉手段」として利用されていることが明確である。北朝鮮にとって、合意とは守るための約束ではなく、違反行為や破棄を含めて相手を揺さぶるための道具にすぎない。北朝鮮に約束という概念がないと言われる所以だ。約束とは、状況に応じて破棄することを前提とした「条件付きのカード」にすぎない。
体制維持は、北朝鮮政治の本質だ。
そのため、北朝鮮が核開発を放棄するということは絶対にない。北朝鮮にとって、核兵器はまさにこの「体制存続の保証」としての最終手段であり、決して手放すことのできない戦略的資産である。
北朝鮮は建国当初から核開発に関心を示してきた。朝鮮戦争後は、ソ連の下で核開発に着手。1985年、IAEA加盟後も、一貫して核開発を進めてきた。
その間に北朝鮮との間で締結された国際条約や国家間合意はことごとく破られてきた。
こうした態度は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ後の情勢にも影響された。アメリカがアフガニスタン(2001年)やイラク(2003年)に軍事介入し、短期間で政権を崩壊させた現実を目の当たりにした北朝鮮は、自らの体制が軍事的圧力により転覆されるリスクを強く意識するようになった。
合意破棄と「瀬戸際外交」の構図
このような背景のもと、北朝鮮は再び国際合意を「交渉材料」として活用する道を選んだ。つまり、合意の履行と引き換えに、経済支援や安全保障の保証を要求するという、典型的な「譲歩と見返り」の構図である。
北朝鮮は、あえて米朝枠組み合意を破棄し、核開発を再開することで、アメリカを再び交渉のテーブルに引き出し、自国の体制保証を引き出すことを狙っていたと考えられる。
このような戦術は、いわゆる「瀬戸際外交」と呼ばれるものである。交渉決裂や軍事的衝突の一歩手前まで自らを追い込み、最終局面で譲歩を引き出す。2003年に開催された六カ国協議も、こうした北朝鮮の戦略にまさに乗せられる形で進められることになった。
足元を見られるアメリカ
2003年8月、第1回六カ国協議が開催された。
しかし、この時点ですでにアメリカのブッシュ政権は、北朝鮮に対して強硬な姿勢を示すことができず、態度を軟化させ始めていた。北朝鮮に侵攻する意図も体制転覆を狙う意図もないこと北朝鮮に伝え、合意締結を急いだが、結局は何もまとまらずに終わった。
アメリカが強固な態度に出れなかったのは、アフガニスタン情勢が悪化していたからだ。またアメリカはイラク戦争の準備にも取り掛かっていた。北朝鮮に手間も時間も割く余裕はなかった。
北朝鮮は、アメリカが強硬姿勢に出れない状況を確認すると、アメリカの足元を見るような行動に出始める。
2003年から2007年にかけて六カ国協議は計6回行われたが、その期間を通じてアメリカの外交関心はほぼ中東に集中していた。アメリカの本格介入がないと読んだ北朝鮮は、六カ国協議の合意を結んでは反故にし、そのたびに外交交渉の道具にしては見返りを要求し続けた。
北朝鮮は、アメリカの軍事的選択肢が限定されていることを計算に入れていた。中東との両面作戦そのものに無理があるし、もし仮に北朝鮮にアメリカ軍が侵攻した場合、中国とロシアがアメリカの進出を警戒して、極東アジアの軍事均衡が崩壊することは火を見るより明らかだ。また戦争となった場合、韓国や日本が戦火の被害を受けることは間違いなく、その際のアメリカ経済、ひいては世界経済への影響が計り知れない。
北朝鮮はこうした状況を的確に分析し、アメリカが軍事的に動けないことを前提に、六カ国協議を事実上の「外交取引」の場として利用した。
結果として、六カ国協議は本来の目的を果たせず、北朝鮮の核開発を抑止するには至らなかった。
六カ国協議の経緯
2003年に第1回六カ国協議が開催されたのに続き、2004年には第2回・第3回が行われた。しかし、いずれの協議でも実質的な進展はなく、何ら有意義な合意には至らなかった。
2005年、北朝鮮は正式に核保有を宣言。これを受けて開かれた第4回協議では、北朝鮮が核兵器の放棄を約束し、一定の成果が得られたように見えた。
しかし同時期、アメリカは北朝鮮の不正資金の流通を問題視し、マカオの銀行にある北朝鮮関連の口座を凍結。2500万ドル(約30億円)にのぼる預金を封鎖した。これは、偽ドルの製造や覚醒剤の密売によって得た資金であり、北朝鮮にとっては体制維持に直結する重要な財源であった。独裁体制を維持するための忠誠の買収資金が断たれることは、金正日にとって深刻な打撃だった。
この金融制裁に対する報復として、北朝鮮は翌2006年に長距離弾道ミサイルを発射し、続いて初の核実験を強行。典型的な瀬戸際外交が再び展開された。
これを受け、2006年10月、国連安保理は北朝鮮に対する制裁決議を全会一致で採択。北朝鮮に六カ国協議への復帰を求めた。そして、2007年2月に開かれた第5回協議では、北朝鮮の核関連施設である寧辺の閉鎖と、国際原子力機関(IAEA)による査察受け入れが合意された。
しかし、その見返りとして、北朝鮮には100万トンの重油が供与され、加えて各国との国交正常化を目指す作業部会の設置まで取り決められた。実質的な譲歩は北朝鮮側にほとんどなく、瀬戸際外交の成功例といえる内容だった。
さらに、この合意には致命的な欠陥があった。IAEAの査察対象はプルトニウムの精製施設に限定されており、高濃縮ウランの開発活動は監視の対象外となっていた。北朝鮮にとっては、プルトニウム型からウラン型への核兵器開発に移行すれば、合意を形式的に守りつつ、実質的な核開発を継続できるという抜け道が残されていた。
第6回協議は2007年3月に開催され、ここでアメリカはマカオの凍結口座の資金返還に同意。だが、北朝鮮はその履行状況に難癖をつけ、資金の確認ができていないことを理由に協議への参加を拒否し、核関連施設の閉鎖も先送りにした。結局、この協議も実質的な成果を得ることなく終了した。
その後、ロシアの仲介により2007年6月に資金返還が実現。ようやく北朝鮮は寧辺の施設閉鎖に着手し、その見返りとして再び100万トンの重油の供与を受けた。
しかし、これ以降(執筆時の2020年1月まで)、六カ国協議は一度も開催されていない。北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)や核兵器の開発を公然と再開したことにより、協議の意義自体が失われたからである。
結局、六カ国協議を通じて交わされた合意は、ことごとく破棄された。北朝鮮は見返りを受け取った後、合意を反故にし、再び核開発の放棄を「交渉材料」として提示しては、さらなる支援を要求するというパターンを繰り返した。
まさに異常な外交交渉である。にもかかわらず、日米韓をはじめとする西側諸国は、このバカげた交渉に何度も付き合い、同じ過ちを繰り返してきた。
北朝鮮は、自国の地政学的立場を巧みに利用している。背後にはロシアと中国という覇権主義的軍事大国があり、前面には日本と韓国という経済大国が存在する。北朝鮮はその緩衝地としての位置を最大限に活用し、アメリカが軍事介入に踏み切れないことを熟知している。
東アジア周辺諸国全てが現状維持を最善と考えているなかで、北朝鮮の自らの立場まで危うくしかねない自暴自棄的な行動によって、東アジアの安定を人質にとる戦略は、非常に効果的に機能する。
結局のところ、北朝鮮の方が一枚上手だった。非核化の取り組みはすべて失敗に終わり、北朝鮮の核開発問題は、日米による非核化政策の失敗、すなわち「惨敗の歴史」である。
今後も、東アジアの地政学的構造に抜本的な変化がない限り、北朝鮮の非核化は実現しないだろう。そして国際社会は、北朝鮮の瀬戸際外交に引きずられ続けることになる。
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