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日本の経済的衰退の元凶「構造改革論」を振り返る

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米中貿易戦争 – 中国強硬姿勢の背景は何か?

 米中間で貿易戦争が激化している。中国のアメリカに対する強硬な対決姿勢には、実は、90年代の日米関係が影響している。中国の政策当局者は、1990年の日米構造協議を徹底的に研究しているとされる。日本は1990年以降、長期的な経済停滞を経験し、いまだにその影響から脱却できていない。この経済的衰退の契機の一つが、日米構造協議であった。

 中国の政策当局者は、日本と同じ轍を踏まないという強い意志でアメリカに臨んでいると思われる。日本の失敗から学んでいるのだ。

 では、この日米構造協議とは、一体何だったのか?
 日米構造協議に端を発した構造改革論は、その後の日本に何をもたらしたのだろうか?

構造改革論とは何だったのか

 1990年代、日本では「構造改革論」が盛んに議論された。しかし、改革の目的や目指す方向性は明確でなく、具体性を欠いた抽象的な議論に終始した。

 この「構造改革」という言葉は、1989年の日米構造協議でアメリカから提示されたものである。日米構造協議は、1980年代後半の日米貿易摩擦を背景に、貿易不均衡是正のために開催され、1990年に最終報告書がまとめられた。その骨子は、公共投資による内需拡大と規制緩和による市場開放であり、日本に一方的な変革を求めるものであった。

 日本は80年代を通じて、巨額の対米貿易黒字を積み上げていた。この貿易収支の不均衡に関してアメリカの議論は非常に乱暴なものだった。アメリカは、自国の貿易赤字の原因を日本の閉鎖的な市場構造に求めた。貿易不均衡が生じる原因は、国際競争力のないアメリカの製造業に問題があるのではなく、日本の市場が問題だというのだ。独特の商習慣やさまざまな規制が非関税障壁となって、日本の市場は公平性を欠いた歪んだものになっている。このような認識の下、日本市場は、構造から改革されなくてはならないものとされた。

 こうして、日本への市場開放への圧力が高まっていく。構造改革論は、終始日本の国内問題として議論されていたが、実際にはこのような背景が存在していた。つまり、この議論は、日本国内で自発的に始まったものではなく、アメリカの圧力に端を発していた。アメリカ製品の消費地として日本の市場をいかに開放させるか、ということが議論の発端であり、アメリカの要望に従って貿易摩擦を解決する方法を模索することが主な目的だった。
 アメリカ側の要望ははっきりしている。規制緩和による市場開放と内需主導型の経済への転換だ。だが、こうした「アメリカの影」は巧妙に伏せられたまま官僚主導で議論が進められていく。

 しかし、こうした目的に沿って行われた経済政策は、90年代通じて、端的に言ってすべて失敗に終わっている。

 アメリカはドル建て債務の軽減とアメリカの輸出産業の国際競争力の強化を狙って、ドル安誘導政策を行っていた。85年にはプラザ合意によって、先進五カ国の中央銀行が協調介入を実施し、ドル高是正が行われる。
 この協調介入による急激な円高ドル安の進行によって、日本の製造業が低迷すると、日銀は金融緩和を実施。これが国内に過剰な流動資金を生み、資産バブルを引き起こすことになる。
 91年にこの資産バブルは崩壊し、逆に資産デフレが生じて90年代以降、消費の低迷が続く。

 90年代は毎年、巨額の赤字国債を発行して、公共支出も行われたが、成長戦略のないまま既存の建設業のみに支出されて、十分な産業政策としての効果を持たなかった。道路族に象徴されるように、族議員と官僚の天下り企業に資金が浪費されるだけで、将来の日本を牽引する成長産業の育成には全くつながらなかった。

 こうして、内需拡大政策は、巨額の赤字国債の発行を許し、財政のプライマリーバランスを著しく毀損させるだけに終わった。

 そこで90年代半ばには、構造改革論は、規制緩和による市場創造、それに連動した新分野の産業創出が強調されるようになった。そのための手段として、金融分野の規制緩和による資本の自由化と国際化が、不可欠なものとして認識されていくようになる。金融自由化は、今や、景気回復の鍵として議論されるようになった。このような議論を経て、96年の橋本内閣では、「金融ビッグバン」という名目の下、金融の自由化政策が実施されていく。

 そして、この頃、ITやPC関連などの情報技術分野の急速な発展を背景に、アメリカの景気は回復基調に入る。アメリカには、明確な成長戦略があった。次世代を担う分野に効果的に投資を行うことで、90年代の後半から急速な経済発展を遂げていく。一方、日本は平成不況と呼ばれる長期の経済停滞傾向がはっきりとしだす。90年代後半に入ると、日米の経済状況は完全に逆転していた。

 この頃から、構造改革論は当初の議論から変質し、内需拡大政策から、供給側(supply-side)重視の経済政策論へと変わっていく。そして、急速に景気の回復したアメリカを見習い、当時、経済界で主流となった新自由主義政策が構造改革の手本(model)とされるようになる。構造改革は供給創出の政策とみなされるようになっていったのである。
 構造改革による市場の自由化、国際化は、低迷する日本の景気を回復するための不可欠の手段であるとされ、具体的には、閉鎖的で官僚主導的な日本の特殊構造を打破することが政策課題と位置づけられていった。小泉政権の郵政民営化論は、この議論の延長線上にあった。

 そして、構造改革論自体は、個別、具体事例に即して議論されることはほとんどなくなり、市場開放と国際化という命題の下で、議論は増々抽象化され、一般化されていった。

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構造改革論の帰結

 2000年代に入ると構造改革という議論はほとんど聞かれなくなった。以降、20年以上が経過し、議論の総括もないまま忘れ去られようとしている。
 構造改革は本当に必要だったのか。90年代の「平成不況」は決して構造的なものではない。プラザ合意による急速な円高で国内に過剰な流動資金が生まれ、バブル景気を引き起こした。その後、バブル崩壊によって資産デフレが生じ、そこへ円高不況が重なった。またその後の規制緩和等による国際競争の激化や価格破壊が消費行動の変化をもたらし、企業の収益を圧迫していった。規制緩和を行って競争条件を激化したとしても、総需要が増加するという理由はどこにもない。その結果が、平成不況だったのである。

 市場の自由化と国際競争の激化によって収益が圧迫された企業は、防衛手段をとるようになった。それが、外注化(outsourcing)の拡大という手法である。従来、企業が直接行っていた業務を外注化して、競争入札にかける。多様な業種の広範囲な業務において、下請けへの圧力が増すことになった。特に固定費としての人件費を外注によって圧縮できることは、企業にとって大きな利点になった。
 2000年代以降はこの手法が、大多数の大企業で採用され、一般化した。さまざまな分野で労働環境が悪化し、さらに雇用の面においては、派遣と非正規雇用が増大した根本原因である。

 そして、国際競争力のある企業は海外へと進出し、製造拠点、営業拠点を国外へと移していった。結果、国内産業の空洞化が進んでいった。そして、それに伴い日本の技術は海外へ流出した。

 日本国内のほとんどの企業にとって、市場の自由化と国際競争の激化は、国際競争力強化への誘因とはならなかった。日本はこれをアメリカの外圧によって一方的に要求されてきた。

 その後の日本は、ただただ経済的衰退と格差の二極化を進んでいる。

 アメリカからもたらされた構造改革論は、明らかに日本の経済力を削ぐことがその裏の意図として存在していた。日本はそれに対して全くと言っていいほど無警戒で鈍感だった。構造改革論によって、日本に市場の自由化を求めたアメリカ自身が、今ではTPPから脱退しているような有様だ。

 構造改革論は、アメリカの意図で始まり、アメリカ主導で展開された。そして、日本の歴代自民党政権はアメリカの要望のまま、それを受け入れた。そこに日本の主体性はどこにもなかった。日本はアメリカからの外圧に従うのみで、自らの成長戦略も経済政策も全く持たなかった。そもそも国家戦略というもの自体が欠落していたのだ。

日本に主体的戦略は可能か?

 中国の政策当局者は、このような90年代の日本の経済的「敗戦」を徹底的に研究していると言われている。このような中国がアメリカに対して妥協的な姿勢をとるとは思えない。

 米中貿易戦争は今後さらに激しさを増していくだろう。日本はその影響を直に受ける立場にある。今後、アメリカが、対中戦略の一環として日本に対し、さまざまな要求を突きつけてくることは間違いない。
 日本は90年代のような同じ轍を踏んではならない。日本は独自の対中戦略を構築しておかなければ、中国の脅威を前にして、アメリカに足元を見られることになるだろう。

 安倍政権はまさにそのような状態だった。中国の軍事力強化という脅威を前にして、トランプ大統領に足元を見られる格好になった。安倍政権は軍用機の購入、穀物輸入枠の増大などトランプ大統領の一方的な要求に従順なまでに従い続けた。

 バイデン政権は、トランプとは異なり、国際協調を重視する姿勢だ。日本は対等な立場から、中国への対抗策をアメリカと模索していかなくてはならない。アメリカが国際協調路線を採っている現在は、日本にとっては絶好の機会だと言える。だが、ひたすらアメリカ追従の政策だけを採り続けてきた日本の政権にその自覚はあるのだろうか?

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