規則的に間違える脳 – 下條信輔『意識とはなんだろうか』(1999)

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下條信輔『意識とはなんだろうか』(1999)

知覚における錯誤とその意味

 見間違い、聞き違い、そういった知覚の誤りには、実は一定の傾向がある。

 確かに言われてみれば、そうだなーと感じる。誤りは人それぞれなはずだが、実際はみんな似たようなことで同じような間違いを犯している。
 誰もがニコラス・ケイジをモト冬樹と勘違いしているが、ビージーフォーだったのがモト冬樹だ。

 本書は、このような誰もが普段、経験的に感じている認識錯誤についての実感を脳科学から裏付けている。脳の認識には一定の偏向(bias)があり、それは日々の日常における些細な知覚の誤りにおいても同様に起きている。認知の誤りにおいてさえ、脳の機能に従っているという非常に興味深い事実を解説している。

知覚の構造

 知覚、認知の錯誤は二通りに分けられるという。一つは、外在的で偶発的な錯誤である。これは偶然に生じたもので再現性や規則性はない。それに対し、内在的で本質的な錯誤というのが存在する。この錯誤には、前者には見られない規則的で構造的な特徴がみられる。

 認知の錯誤における構造的特徴には、生物学的な根拠がある。特定の感覚属性だけに選択的に反応し、神経信号を送り出す感覚ニューロンのことを特徴検出器と呼ぶが、環境の変化などによってある特定の特徴検出器が強く働いた場合、全体の知覚検出の出力均衡が変化する。環境の変化に対応して基準として働く特徴検出器が変化する働きを知覚的順応、環境の変化が元に戻った後もその基準が持続することを陰性残効という。この時に知覚の錯誤が生じる。

 知覚器官の特徴として、検出可能な刺激(信号)の中で、中心点付近が最も鋭敏な弁別能力を発揮するという性質がある。それは、生物も工学的なものも含めてすべての感覚器、検出器に共通している。例えば、色覚は通常の環境下では、人間の色の識別能で力は白、あるいは灰色近辺が最も鋭敏になる。そこに赤の色眼鏡をかけると色覚の知覚機能は、それに順応し、赤を中心点へとずらし、色の検出が最も効率的になるように調節するのである。これは、色の知覚は錯誤としてではなく、関係性の質の変化として考えるべき特徴だ。

 知覚はこのように、環境と人間の認知機能の関係性に依存して変化する。そのため、物質の物理的特徴によって認知の錯誤を定義することはできない。
 脳内の知覚活動という観点だけから見た場合、正常な知覚も誤った知覚も、それぞれの次元で同じ生化学的法則に従っているだけであり、錯誤と正常の区分は存在しない。認知と現実との間に齟齬があるとすれば、それは生物にとって生命の危機を意味する。したがって、現実と錯誤との間の区分を決定する基準として、生存のための有効性という観点が考えられる。だが、生存を脅かさない錯誤は日常的に多く生じている。
 錯誤は、本人の身体の内部、社会的環境的文脈の内部に支障をきたさない範囲で収まっている限り、錯誤として意識されない。人々や場面に共通の知識、あるいは環境に共通の資源に言及して初めて錯誤は意味をなし定義できるのである。

脳の来歴

 人間には、混沌や予測不可能な状態を避け、周囲の環境や自然の中に秩序や因果関係を発見しようとする強い認知傾向が存在する。無秩序や因果関係のなさという状況に人は本質的に耐えられないのだ。そのため、理解できない環境に対し、人間の認知機能は、足りない情報を最も可能性のある形で補い、経験や常識を用いて埋め合わせようとする。無意味から意味を見出そうとする機能が、人間の認知活動の基本なのである。
 つまり、この認知能力の限界が、人にとっての「錯誤」として現れる。

 人間が自らの生存している環境世界に意味と秩序を見出そうとする機能は、人間が環境へ適応し、それを変化させていく能力と関わっている。
 脳は身体の構造を介して、環境に関わっていく。脳は環境を学習、記憶し、それを適応に役立てる。その結果、知覚系と行動系が環境に対して適応していく。その過程を著者は、「脳の来歴」と呼んでいる。
 来歴とは、身体を通した外界との相互作用の経験の総体、つまり順応の過程である。この順応の歴史を基準として脳自らが、知覚の錯誤(不適応)と正解(適応)を定義し判断していく。つまり、錯誤はこの来歴があるからこそ定義可能なのだといえる。
 固有の来歴を排除して、脳の生理的機能や物理的状況にのみ依拠して認知の機能を特定しようとすると、主観と現実という二元論的な理論的対立を逃れられなくなる。脳の錯誤は、それぞれの個人が持つ固有の来歴の環境に対する不適合がから生まれると考えるべきだろう。たとえば、幻肢といった症例も、脳がいかに来歴を前提にして活動しているかの証拠と考えられる。

 脳の来歴に基づき、無秩序から規則を見出そうとする認知の過程で働く知識を「暗黙知」と呼ぶ。この暗黙知という概念は、言語化されない身体的、経験的知識を指すためにマイケル・ポランニーが用いたものだ。著者の下條氏は、この概念を脳が外部環境を知覚し、生命にとっての意味を世界に見出すための知識として捉えている。だが、暗黙知は知覚だけに関わるのではなく、統一的な自我と自己意識、生理的身体、社会的関係性、自然界に存在する規則性も含めて、すべての認識に働く全体論的な知性として捉えることができるだろう。

 著者の議論は、知覚についてだけでなく、脳の認識機能全般に応用できる可能性を秘めていると言えるだろう。