公共事業に群がる人々 その2 – 藤井聡『公共事業が日本を救う』

書評(残念な本)

藤井聡『公共事業が日本を救う』(2010)

民主党政権への批判本

 2010年刊行の本。
 2009年8月に民主党政権が誕生しているので。。。もう執筆動機がミエミエの「政治的」本。
 当時、民主党政権が発足して、公共事業への予算削減が主要な政策課題となっていた。著者は、当時の公共事業批判の論調を受けて、公共事業はすべて無駄である、という行き過ぎた議論に警鐘を鳴らすと述べている。
 ん?🤔
 当時も今も公共事業のすべてを廃止しろなどとは誰も述べていない。(「2位じゃダメなんですか?」とは言っていたが。。。)
 民主党政権ができてよほどあせったのであろう、なりふり構わず公共事業への予算を確保するために急遽出版した、といった印象はどーしてもぬぐえない。

 なぜ民主党政権が成立したのか?
 なぜ自民党が支持を失ったのか?
 なぜ民主党の「事業仕分け」が政権の最重要の政治的課題として浮上したのか?
 それは自民党の予算編成に透明性も政策合理性もなかったからだ。
 要は、公共事業が国民から全く信頼されなくなったからだ。
 公共事業で問題にされていることとは、利益誘導政治の温床になるということであって、ハッキリ言って、それ以外に問題はない。問題の所在そのものは極めて単純だ。民意をまったく反映しない一部の人間の利益によって、まったく合理性、必要性のない事業に巨額の予算、つまりは税金がつぎ込まれてしまう。この点こそが問題であって、したがって、一部の人間の権益のために政策の意志決定が歪められてしまう構造を見直し、合理的な政策に予算が配分される仕組みを作ることこそが、公共事業をめぐる最大の政治的課題なのだ。
 言い換えれば、政策決定において政策の合理性をいかに確保できるのか、という話なのだ。この課題を実現できなくては、公共事業に対する批判が消えるわけがない。しかし、この著者は、この点には一言も触れず、予算だけは削るなとひたすら連呼する。

 どうにも本書は、公共事業権益を擁護するためだけの、強引な議論が目立つ。
 一つ例を示そう。

高速道路事業をめぐる問題

 まず、高速道路に関して。
 日本の高速道路の狭さが問題として取り上げられている。日本では、6車線以上の高速道路は8%しかなく、3車線以下の狭い高速道路が30%近くを占めている。諸外国に比べ立ち遅れたこのような走行環境が、慢性的な渋滞を引き起こしていると著者は述べる。
 しかし、日本のように緑被率が極めて高い国では、国土そのものが制約となっていて、高速道路の拡幅工事にはおのずと限界がある。可住面積の狭い日本と人口密度の低い諸外国と安易な比較はできない。
 そして最も重要な点だが、渋滞の最大の要因となっているのは、車線数の問題ではなく、料金所なのだ。ドイツのアウトバーンは、完全に無料なことで有名だが、アメリカ、フランス、イギリスなどの主要国においても高速道路はその殆どが基本的に無料だ。料金所が存在する割合も、走行距離に対してきわめて低い。 頻繁に足止めを食らう日本とは大きく違う。
 渋滞の解消を主張するのであれば、まず料金所を廃止し、高速道路は原則無料化にする方法を模索すべきだ。だが、おかしなことにこの著者は、渋滞を引き起こす最大の要因となっている料金所にはまったく言及していない。なぜだろう?🤔

 それは、かつての道路公団をめぐる問題を調べてみると、なーんか分かってくる。

 料金所で支払われる料金は、道路特定財源として徴収され、官僚の裁量の余地が濃い財源となっていた。国会の審議を経る一般財源とは違い、この特定財源が、当時の道路公団やその傘下にコバンザメのように張り付いている何千という外郭団体によって杜撰な運用がなされていることが発覚し、小泉政権下で政治問題化した。
 この道路公団とその外郭団体は、そのほとんどが官僚の天下り先で、自民党の道路族議員と不適切な関係を築いていた。そうした中で、談合や随意契約が常態化していて、調査が進むにつれて、多数の贈収賄事件も発覚した。2005年になり道路公団は民営化され、それとともに将来的に高速道路の無料化が決められた。問題の根源であった道路特定財源が一般財源化されたのは、ようやく2009年になってからだ。
 自民党の道路族議員と官僚は、道路公団を民営化することで問題の幕引きを図ったつもりなのだろうが、予算執行に関する本質的な問題はなんら変化していない。料金所は残されたまま、そこで徴収された料金は、高速道路建設に使われた借入金の返済に充てられる。道路予算が国会審議を経たとしても、道路建設に合理性と経済効率性がなければ、永久に高速道路無料化は実現しない。民主党政権から安倍政権へと移り変わり、また予算編成の不透明さが増してきている。そして、道路予算に関する報道が減って国民の関心が薄れてくると、ほとぼりが冷めたといわんばかりに御用学者が暗躍しだす。

 少なくとも道路の維持管理にどの財源が適切であるのか、利用者負担の原則に立つとするなら料金所という方法以外の負担方法はないのか、そのような基礎的な部分からまず検討し直すべきで、そのような検証をまったく欠いたまま予算だけは削るなと声高に主張するのは、学者の態度として誠実さに欠ける。

 この本、一事が万事こんな調子。全体的に。。。官僚の権益を侵すことになる発言は慎重に避けている?。。。そういった印象だ。

日本の都市計画に見る政治不在

 このような公共事業の歪みは、「都市計画」において最も顕著に見て取ることができる。

 都市計画が全く不在で、都市の中心部(北米の都市に見られるいわゆるダウンタウン)が不明瞭な都市構造。都市の中核部(中心部)不在の結果、無計画に広がる公共の交通機関。鉄道、地下鉄、バスともに一目見ただけでは一体どこに向かおうとしているのか、全くわからないぐちゃぐちゃな路線図。区画整理に合理性がなく、商業施設から住宅、さらには風俗店までが混在し、歴史的建造物の隣に平気でパチンコ店を立てるような恥知らずな土地利用。そして、絶望的に醜い街路と都市景観……

 もういまさら修正は不可能なほど日本の都市構造は歪んでいる。本来は、都市計画という公共事業ほど政治と行政の指導力が問われる分野はない。しかし、政治不在の中で都市計画は、個々の議員が自らの地元への利益誘導のために、それぞれバラバラに予算を取り合うだけで、その場その場の場当たり的なものしか行われていない。あとは民間投資による地域再開発中心で、都市全体の構造を考えるという視点は完全に欠落している。

 都市の機能は一ヶ所に集中させ、そこに人の流れができるように公共の交通機関を整備していく。そしてその一方で、その中心部への個人の車の流れを制限し、都市部の渋滞を緩和させる。都市の中心部は、むやみに拡大させていくのではなく、人口100万から300万ほどで一つの中心部を作り、それを単位として一つの都市を形成させていく。
 欧米の都市構造を少しでも観察してみれば、このような明確な計画性の下に出来上がっているのがよくわかる。
 それと比較して、日本の都市計画がいかに杜撰で思想性がないかは、極めてはっきりしている。日本の都市機能が劣悪なのは、その必然的結果だといえる。日本は中規模の地方都市でも車がなければまともに買い物もできない状態だ。公共交通機関と都市部が有機的なつながりを失っているからだ。日本の都市の機能不全は、いちいち藤井氏のいまどき珍しくもない留学体験など聞かなくても、少しでも海外を観察すればわかることだ。

 都市部の生活環境その他の点に関しては、もう目も当てられない。防災対策の遅れた密集住宅。狭小な住宅に高額の家賃。長時間の通勤、通学。全く改善されない満員の電車。公園や緑地の極端な不足。老朽化する校舎や橋。(最近ではこれに放射性物質の除染まで加わった。)
 都市の再開発は必要である。たとえば小さな例で言えば、これは藤井氏も指摘していたが、都市部の電柱は防災と景観の観点からすべて地中化すべきだろう。しかし、電柱の地中化ひとつろくに進んでいないのが実情だ。
 なぜか。
 こうしてすべてがなおざりにされてしまうのは、公共事業が決定される仕組みそのものが根本的に間違っているからだ。それは結局、日本では公共事業が、政治家の利益誘導の道具、官僚の利権確保のための手段としてしか認識されていないからだろう。

 仮に、公共事業を財政政策として景気浮揚効果を狙うのであれば、公共投資効果の高い都市部を優先させる必要がある。しかし、実際は、投資効果の低い地方を中心に予算が配分され、70年代型のハコモノ事業ばかりがのさばって、都市部の整備はなおざりにされてきた。その結果、日本の都市部の生活環境は、先進国の中で最悪の部類である。
 (では、一方の巨額の予算がつく地方の公共事業はどうかと言えば、誰も利用しない強大なハコモノ施設を作って、その後は赤字垂れ流し。その巨大な経営赤字を住民税で補填するという、地方の発展にも何ら貢献していないものばかりだ。)

  改めて言うが、都市計画という公共事業ほど、政治が主導力を発揮し、公共的な観点から進めなくてはならない分野はない。公共事業を官僚と族議員の既得権益から開放して、強力な指導力と明確な企画性の下に実行できる仕組みを作らなければ、公共事業への信頼は確立できないだろう。

必要な公共事業とは?

 公共事業は必要だ。問題は、それをいかに合理的、かつ公平に実行できる制度を作るかにある。
 それを藤井氏は、公共事業は必要だ、という誰もが認める前提から、だから予算を削るのは誤りだ、したがって公共事業はどんどんやれ、というバカボンのパパもびっくりな三段論法を主張している。こんな論理展開を本気で言えるとしたらそれは、問題の本質が理解できていないか、族議員と官僚の権益を守ろうとしているかのどちらかだろう。

 現在行われている公共事業は、景気浮揚効果に乏しく、財政を圧迫し政策の自由度を狭め、財政危機を招来し、経済効率性を欠いた事業で、社会的、経済的に必要性のないインフラを何の検証もなく行っていて、そのツケをすべて後世にまわす、という救いようのないものである。そして、その結果として、都市部の整備は遅れ、経済の停滞は長期化し、財政は破綻寸前で国民は増税を押し付けられている(消費税10%もすぐそこだ)。

 公共事業は、その仕組みを見直すところから始めなくては、国民の信頼が得られるはずがない。藤井氏の公共事業が必要だというごり押しの公共事業推進論は、この点を完全になおざりにしている。あるいは巧妙に避けている。彼の議論は、現在の公共事業見直しへの論調を言葉や話題を慎重に選びながら巧妙に回避させようとしているようにしか見えない。

 消費税も社会保障費も負担は重くなる一方だ。世界でも右に出るものはない強靭な日本人の忍耐力もそろそろ限界に来ていることを、公共事業を私物化する官僚と族議員、及び御用学者は、肝に銘じておくべきだ。

(消費税が10%になり、高速道路無償化もさらに延期ってなったら、さずがに日本人も怒るだろう。。。たぶん。。。いや、そうであってくれ!)