大島直政『イスラムからの発想』(1981)
一般のイスラム教徒には、異教徒と理解し合おうという思想はない、ということを心得ておかねばならない———
異文化間での相互理解の基本は、「お互いを理解できないということを理解する」という点から始まる。他者を「自分とは異なる存在」として認めることは、相手が自分とは異なる価値観や世界観の中で生きているという事実を受け入れることにほかならない。互いに理解し得ない存在であると認識することで、私たちは多元的な世界観にたどり着くことができる。
しかし、こうした多元的な世界観を容認することが、非常に難しいのが一神教の厳しい世界観である。著者は、そうした厳格な宗教観においては、安易に「理解」という言葉を用いるべきではないと戒めている。
多くのイスラム教徒にとって、自らの信仰こそが絶対的な真理であり、他の宗教を「理解する」という発想自体が必要とされていない。つまり、異教徒は「異なる価値観を持つ他者」ではなく、「イスラムから逸脱した存在」と見なされる。このような宗教的認識が、私たちにとってイスラム世界を理解することをいっそう難しくしている。
生活者の視点から見るイスラム教
本書は、私たちとは大きく異なるイスラムの発想や文化について、日常生活に根ざした具体例を交えながら解説している。
本書の優れている点は、イスラム世界における「理想」と「現実」とを明確に書き分けているところにある。多くの類似するイスラム解説書では、イスラム思想の理想的な側面だけを取り上げたり、あるいは紛争・テロ・独裁政治といった混乱した側面に偏ったりしていることが多い。そのため、一般の人々の日常におけるイスラム世界の姿を全体的に描いている書籍は少ないのが現状だ。そうした意味でも、本書の記述には非常に興味深い点が多く見られる。
以下に、本書で紹介されているイスラムの発想をいくつか挙げてみよう。
イスラムにおける法
イスラム教を理解するには、それを個人の内面の信仰として捉えるのではなく、むしろ社会的な「法」として捉えるほうが適切である。そしてその法は、神との契約によって与えられたものであり、それを忠実に守ることが信者であることの証とされている。
- イスラム社会では、生活のあらゆる側面が宗教法(シャリーア)によって規定されている。また、この宗教法の内容は宗派によって異なり、それぞれの信者は自らの宗派の法を「神聖なもの」として絶対視している。
- 道徳や倫理は抽象的な概念ではなく、法によって具体的に定められている。そのため、宗教法の解釈の違いが、異端と正統をめぐる深刻な対立へと発展することがある。
- 日常生活のあらゆる行為が法に照らして評価されるため、新たな出来事が宗教法に違反しないか、あるいは民事的な争いが法にどう位置づけられるかといった問題は、すべて宗教裁判所によって判断される。宗教や宗派ごとに法の内容や解釈が異なるため、国によっては複数の宗教裁判所が存在することもある。このような事情から、宗教や宗派、民族を超えた「世俗的な近代法」の成立が非常に難しくなっている。この点が、イスラム世界において近代国家の形成を阻む大きな要因のひとつとなっている。
イスラム教の成立と社会的背景
預言者ムハンマドは、当時の社会におけるさまざまな矛盾や不正に対して強い怒りを抱き、社会改革の一環として新たな宗教を創始した。たとえば、利子の禁止、禁酒、妻帯の制限といった生活に密接に関わる規定は、いずれも当時の不平等や混乱を是正する意味を持っていた。
- ムハンマドの教えは『コーラン』にまとめられ、イスラム教徒にとってはすべてが神の言葉とみなされている。ムハンマドの死後には、彼の言行が「ハディース」として伝承され、コーランと並んでイスラム法(シャリーア)の根拠として絶対的な権威を持つようになった。やがて、これらの教えは形式化され、一部の宗教指導者(ウラマー)によって解釈権が独占されるようになる。
- 一日5回の礼拝や、食事に関する禁忌(ハラール)など、今日のイスラム教徒が守っている多くの宗教規定は、ウラマーたちによる最高会議での合意(イジマー)を通じて制定されたものである。
- イスラム社会では、宗教法がそのまま現実の社会秩序を律しているため、政治闘争がしばしば宗派の分裂につながるという特徴がある。イスラムの二大宗派であるシーア派とスンニ派も、もともとはムハンマドの後継者をめぐる争いから分かれたものである。
遊牧民的価値観とアラブ社会
アラブ世界には、イスラムの宗教観とともに、遊牧民的な価値観が色濃く残っており、それが社会のあり方にも大きな影響を与えている。
- 遊牧民社会では、血縁関係が絶対的な意味を持ち、社会の基本単位となっている。ここでの血縁は純粋に生物学的なものであり、たとえ婚姻関係であっても血族には含まれない。そのため、日本的な「擬似家族」や「義理の関係」といった概念は成立しない。
- また、ものの見方が極端に主観的で、感情的になりやすく、自尊心が高い一方で劣等感も強いという二面性がある。さらに、運命を受け入れる「運命論的」な思考や、人間の力には限界があるという「人間限界主義」が根強く存在する。こうした気質は、欧米社会におけるアラブ人に対する一般的な評価にも表れている。
大島直政『イスラムからの発想』(1981)
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