国際秩序の変遷
中国を中心とする華夷秩序から、ヨーロッパ近代の勢力均衡に基づく国際関係へ、そして20世紀には、人権という普遍的倫理を掲げた、国際機関を中心とする国際秩序へ——。
19世紀から20世紀にかけて、国際秩序に対する考え方は大きく変遷してきた。
各国の外交や戦争の決断は、その時代の国際秩序や国際通念に従ってなされてきた。そして、その正当性や倫理的評価も、当時の価値基準を基に判断されるべきだろう。しかし、その国際秩序や通念そのものが変化し、ときに互いに相容れない形で並存・対立していたのが、19世紀から20世紀にかけての歴史である。19世紀以降の外交や戦争の評価が極めて困難なのは、そうした背景において、各国が拠って立つ国際秩序観が大きく異なっていたからにほかならない。
ここでは、各国の行動の規範となった国際秩序観の変遷について、その歴史的展開をたどってみたい。
ヨーロッパ近代の世界秩序
国際法という概念は、17世紀中葉にヨーロッパで登場した。
1625年、後に「国際法の父」と呼ばれることになるオランダ人のフーゴー・グローティウスが『戦争と平和の法』を発表した。これを機に国家間の交渉や戦争においても法的な秩序が必要だという考え方が広まっていく。最初に国際法の考え方が具現化したものが、1648年に三十年戦争の講和条約として結ばれたウェストファリア条約である。ここで初めて主権や国境、内政不干渉といった現代の国際関係の基礎となる概念が明確にされた。
17世紀以降のヨーロッパにおける国際世論、あるいは国際法の観念においては、戦争は外交の一手段とみなされていた。各国は、通常の外交交渉で決着がつかない場合、最終手段として戦争という武力行使に訴えることができた。戦争は、正当な権利の行使と捉えられていたのである。
戦争が外交の一手段として、また正当な権利として認められていたのは、ヨーロッパ諸国間で戦闘行為に対して最低限守るべき条件のようなものが共通認識として成立していたためだ。残虐な兵器の使用、捕虜の虐待、占領地の住民に対する略奪や暴行の禁止など、戦争に際して守るべき一定の規範が国際通念として共有されていた。これらの慣行は次第に制度化され、やがてはジュネーヴ条約(1864年)やハーグ条約(1899年)といった戦時国際法へと発展していった。
19世紀後半から急速に近代化政策を押し進め、このヨーロッパの国際秩序にアジアで最も早く適応しようとしたのが日本だった。
中華秩序からの脱却を目指した日本
ヨーロッパの国際法秩序においては、主権国家が排他的に支配・領有を主張できる範囲を「領土」と呼ぶ。しかし、東アジアでは、中国を中心とする「華夷秩序」の観念が国際関係を秩序づけていた。この華夷秩序では、儒教的価値観に基づき、徳の程度に応じて国家や民族が高位から低位へと序列化されていた。そのため、「領土」という明確な概念は存在せず、国境も極めて曖昧なものとならざるを得なかった。
この二つの秩序観の違いは、19世紀末の日清間の対立において顕著に現れた。日本は清に対し、朝鮮が国際法上どのような立場にあるのかを明確にするよう迫った。清は、東からは日本の挑戦に直面し、北からはロシアによる領土的侵食を受けていた。この混乱の中で、清国内でも洋務運動などの近代化政策が進められ、次第に華夷秩序の枠内にあっても、ヨーロッパ的な意味での主権的実効支配を確立しようとする動きが現れ始めていた。
日清戦争とは、まさに華夷秩序が揺らぐ中で、近代的な国家観に基づいて支配体制を再編しようとする日本と、それに対抗しようとする清との衝突であったと言える。
20世紀新たな国際秩序観の登場
20世紀に入り、人類は第一次世界大戦という未曽有の戦乱を経験した。全体主義戦争と呼ばれた国家の総力戦であり、その被害は甚大なものになった。大量殺戮が可能な近代兵器が導入され、戦闘はただただひたすら陰惨なものになった。ヨーロッパでは、この第一次世界大戦を機に、戦争そのものを合法的なものと見ることへの懐疑が生まれてきた。
特に、戦争観が変化していく上で大きな役割を果たしたのは、アメリカである。アメリカは、第一次世界大戦の終焉を契機に、国際社会の中心的役割を担う存在として台頭した。
アメリカの国際秩序観とは、国内の秩序と同じように、世界にも中央政府とその政府が執行する法が存在し、諸国の違法な行為に対しては、集団安全保障に基づき制裁すべきだ、というものだった。これは従来の国際均衡理論とは全く異質のものだった。
ヨーロッパのそれまでの国際秩序観は、対等なものの同盟と対立による勢力均衡によって秩序を維持するというものだ。だが、アメリカには、そのヨーロッパの国際秩序が、各国間に複雑な同盟関係網を形成させ、その同盟に基づいた参戦が一度に発動された結果、世界大戦が引き起こされたという認識があった。
アメリカは、従来の権謀術数渦巻く勢力均衡的なヨーロッパ的な国際秩序からは距離を置くべきとし、1823年のモンロー教書以来、外交的には孤立主義を採ってきた。
そして、第一次世界大戦後、世界の大国として台頭した際には、アメリカは自身をヨーロッパの国際関係から独立した公平な立場にあると認識した。自由と正義を体現する国家として、新たな国際秩序における世界の中央政府の役割を担う資格があると自任していたのである。
1919年、第一次世界大戦の戦後処理としてパリ講和会議が開かれる。ここで初めて国際機関を中心とした新たな国際秩序体制の構築が議論された。
1928年、急速に高まった反戦の国際世論を背景にアメリカは、パリ不戦条約の締結を主導した。この条約で初めて自衛戦争以外の戦争が違法とされた。ただし、この条約では侵略行為に対する定義がなく、何を自衛戦争とみなすかは各国の自主的な判断に委ねるなど、不明な点も多々残されていた。
一方でパリ講和会議は、敗戦国への懲罰的な意味合いが強く、戦勝国の権益を擁護するのみで、不公平な側面があったことは否めなかった。
オーストリア-ハンガリー帝国は解体され、ドイツは膨大な賠償を課されたうえで、ほぼすべての権益を放棄させらた。イタリアもフィウメ領有を拒否され、権益を著しく縮小された。日本が提唱した人種不平等条約も否決された。にもかかわらず、イギリス、アメリカ、フランスの権益は引き続き、維持された。
この公平性を欠いた国際平和の理念は、不正な国際秩序を維持しながら、戦争だけが違法化されたとの認識を敗戦国を中心に広げる結果となった。これは第二次世界大戦の遠因となる。
国際秩序への挑戦
第一次世界大戦において、ほとんど被害を受けなかった日本は、戦後、ヨーロッパの国際秩序の理念が根本的に変化しつつあることに気づかず、帝国主義的な膨張政策を継続した。
1932年、日本は満州国を建国し、これに対する国際的批判に反発して国際連盟を脱退した。この日本の行為は、国際連盟の権威を著しく失墜させ、ひいてはイタリアによるエチオピア侵略を誘発する一因ともなった。
1930年代以降に日本が行った一連の軍事行動は、当時の国際世論の流れに逆行していたため、国際秩序に挑戦するように見えていた。
国内においても、当時の日本では大正デモクラシーの影響がなお残っており、特に1937年の盧溝橋事件以降の支那事変に対しては、これを侵略戦争と捉える人々も多かった。また、共産主義者や民主主義者を中心に、日本の戦争を罪悪視する声も存在していた。
だが、その一方で、列強の仲間入りを果たしたという自負心やナショナリズムの高まりから、アメリカを中心とする国際秩序への反発も根強かった。
第一次世界大戦後に台頭した国はアメリカと日本であり、両国が中国の権益をめぐっていずれ対立するだろうという見方は、当時から存在していた。特に関東軍を中心にその認識は強く、アメリカや新たに登場した共産主義国家・ソ連に対抗する防衛圏として、満州・台湾・朝鮮の権益は死守すべきものであると考えられていた。日本にとって、それは侵略ではなく、あくまで自衛と位置づけられていたのである。
パリ講和会議は戦勝国の権益のみを保護し、1920年代のワシントン体制も日本封じ込めを明確に意図していた。さらにアメリカは、極東において中国の門戸開放を主張する一方で、中南米諸国に対してはヨーロッパ諸国の不干渉を求め、棍棒外交を展開するなど、明らかに二重基準を用いていた。
このように公平性を欠いた国際秩序は、日本の行動に対して自己正当化の余地を与える結果となった。各国の行動を実際に拘束する倫理的基準が曖昧であり、国際法の遵守を確保する実効的な枠組みも存在しなかったことが、日本やドイツによる侵略を助長する要因となった。
日本は、新たな国際秩序に対して懐疑的な姿勢を取り続け、やがて正面から対立する道を選んでしまった。19世紀末には、近代ヨーロッパの国際秩序にいち早く順応した日本であったが、20世紀における新たな国際秩序への適応においては、すべての機会を逸してしまったのである。
両義的な日本の評価
第二次世界大戦の敗戦後、東京裁判によって日本の軍事行動は「侵略戦争」として裁かれ、日本の主張する正当性はすべて否定された。第一次世界大戦後、アメリカを中心に構築された世界秩序は、台頭しつつあった日本を封じ込めるための不公平で欺瞞に満ちたものであった。しかし、かつて明治期の日本が、臥薪嘗胆の努力で不平等条約の改正に取り組んだように、その新たな国際秩序に自ら進んで参画し、その一角を担うという選択肢もまた存在していたはずである。
それにもかかわらず、日本は国際連盟を軽視し、国際社会との対立の道を選んでしまった。それは、新たな国際秩序に対する理解と適応を欠いたがゆえの悲劇であったと言えるだろう。
華夷秩序、近代ヨーロッパの国際秩序、そして20世紀の国際機関を中心とした集団安全保障体制———
日本の近現代史は、これら三つの異なる国際秩序観の変遷の中に位置づけられ、それに翻弄された歴史でもあった。それぞれの国際秩序に基づき、日本はその都度、国家としての行動を決断してきた。国家としての正当性や倫理観もその時の国際通念に従って主張された。だが、その国際秩序や国際通念自体が激しく移り変わり、日本はまさにその渦中にあった。そして、最後は、その変化に日本はついていくことができなかった。
日本の過去を評価する際には、その行動の背景にあった国際秩序観を理解しないかぎり、正当な評価は下せない。日本の軍事行動だけでなく、アメリカを含む他国の行動もまた、当時の国際通念や秩序観を踏まえて初めて、公平に評価されるべきである。
第二次世界大戦を経て、国際連合が設立され、戦争は再び非合法化された。こうした秩序が今後も維持されるかどうかは、人権という普遍的理念と、国連という実効的な制度に支えられた現代の国際秩序が、どれだけの普遍性と正当性を持ち続けられるかにかかっている。
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