ネット右翼とは何か?
ネットの黎明期から存在し、差別的、排外的な言説を繰り返す人々―――
ネトウヨの今日までの流れをネット言論が登場する以前の90年代後半の保守言論まで遡ってまとめてみたい。
保守思想の興隆(90年代後半)
90年代後半、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)という社会運動を目的とした組織が発足され注目を集めていた。96年に始まったこの活動は、戦後の歴史観を批判し、日本の主体的な立場から歴史を見直すことを主張した。そして、戦後の自己否定的な価値観そのものを転換することを試みていた。大東亜戦争を肯定的に見直した小林よしのりの『戦争論』(1998)が爆発的に売れて、この活動は学会や論壇、メディアなど多方面に大きな影響を与えるようになる。
つくる会のこの活動は、いわゆる保守派の思想や主張が言論の第一線に躍り出る契機となり、保守思想が広く一般に普及するのに大きな役割を果たした。
なぜ、つくる会の運動が、突如として大きな社会現象にまで発展したのだろうか?
それは、当時の世相が深く関わっていたように思う。つくる会が発足した90年代半ばとは、若者の教育問題が深刻さを増して表面化した時代だった。
小中学校を中心に、教育現場で集団の秩序を維持できず、教育が機能しない「学級崩壊」が問題となり始めたのがちょうど90年代後半から。同じ時期、オウム真理教に入信する「理解できない若者」が世間の注目を集め、サカキバラ事件に象徴される若い世代の精神的な鬱屈がマスコミの話題をさらっていた(「サカキバラ世代」「キレる17才」という言葉が流行していた)。少年犯罪の増加、凶悪化を受けて2000年には少年法が改正されている。「援助交際」という言葉が流行り、ヤマンバと呼ばれる絶望的に奇妙な姿をした若者があふれていてた。
こうした「自己を見失った若者たち」を宮台とかいういい加減な社会学者が、「倫理も道徳もなく身軽に生きる新しい若者たちの登場」とか言って賞賛しているような頃だった。
教育現場の崩壊した90年代——この世代は、学校教育で、強烈な反日思想を教え込まれている。80年代から90年代は、学校における反日的な歴史教育が全盛だったころで、この頃に学校教育を受けた世代は、自らの拠って来たるべき根拠を歴史から学ぶということをはじめから否定されていた。
物質的な豊かさを生まれながらに享受していながら、その一方、価値や規範に対する意識が希薄化していく時代に生きる若者。見方によってはあらゆる不安や責任から解放された気楽な時代にも見えるが、こうした時代だからこそかえって自己を見失いやすい時代だったとも言える。
つくる会の運動はそうした自己を見失いつつあった若者に一つの指針を与えていた。90年代後半に「日本人としての主体性を取り戻す」という運動が、少なくとも一部の若者の心をつかんでいたのは確かだろう。
だが、この運動は世代を超えた広がりを見せていく。
豊かで一見平和ではあるが、生きることにおける規範や指針というものを全く示せない社会に育ち、私的な関心の領域のみに留まって生きている人々―――
相対主義的な価値意識の中で、余計な社会問題に首を突っ込まず、事なかれ的に生きることが賢いとされる世の中―――
こうした軽薄な時代意識というものは、特定の世代に限らず、高度成長期以降、日本に薄く広く、しかし確実に共有されていたものだろう。
しかし、そうした中でも「なんとなく」「かしこく」生きるということに非常な苛立ちを感じる人々がいたのも事実だ。
つくる会から始まった保守派の市民運動は、こうした時代の雰囲気を抜きにしては考えられないものだろう。
この運動は、狭い学会や読書人層に留まるものではなく、短い期間とはいえ、一種の社会現象にまでなっていた。それは、価値規範や歴史意識を失い、自己同一性不安(identity crisis)を抱えていた一部の日本人に明確な答えを与えていたからだ。自分が何者であるのか、この先日本はどこに向かおうとしているのか、少なくとも一部の人々はその答えを欲しており、保守主義の運動は、歴史の中にその答えを示そうとしていた。
思想から運動へ
この保守派の運動はまさに草の根と呼ぶべきものであって、多くの人々が組織や立場を超えて支持していた。日本人としての誇りを取り戻すという主張は、当時、個々人の日本人としての自覚を促す運動として捉えられていて、具体的な政治活動には結びついていなかった。そのため一種の精神運動のような様相を呈していた。
この運動の中心にいた小林氏自身が『運動論』を書いた後だったため、市民運動がいかに他の政治組織にオルグされやすいか、運動自体が自己目的しやすいかを強調していて、安易に政治活動に関わることを批判していた。
しかし、こうした保守思想の盛り上がりを背景にして、それを政治的な運動に結び付けようとする動きも2005年頃を境に現れてくる。その代表的なものが「チャンネル桜」だろう。「行動する保守」を自認し、街中でのデモを呼びかけ、一般の人々を具体的な政治運動へと結びつける活動を展開していた。
今までの精神的な自覚を呼びかけるだけの運動に飽き足らない人々、特にネットからこうした問題に関心を持った人々が、多くこの「行動する保守」の中に参加していった。それとともに具体的な政治的、経済的主張が声高に叫びだされ始める。この時期の思想から行動へという保守運動の変質は、きわめて安易かつ安直に進展したとしか言い表しようがない。極めて急速で突然の変化だった。
このような急速な変化の背景にあったものこそが、ネット右翼、「ネトウヨ」だった。
ネトウヨの登場(2000年前後)
保守派のこの市民運動が変質していった背景には、「ネトウヨ」(ネット右翼の略)と呼ばれるネットを中心に右翼的言論を繰り返す人々の存在がある。
つくる会をはじめとした保守派の言論は、当初、雑誌や書籍、テレビの討論番組を主な舞台としていた。だが、90年代末から、新しい議論の場としてインターネットが登場してきた。90年代末はネットの黎明期であり、ネットでの議論というものが、どのような方向性へ向かうのか誰も理解していない時期だった。
突然、誰もが自由に公に向かって議論できるようになった。真偽不明な情報が大量に現れ、容易に拡散されていった。従来のマスメディアには絶対に載らないような、先鋭化した極論のような議論が平然とまかり通った。このネットの情報を受け取る側にも、ネットの議論の性質についての理解は全くなく、情報の読解力(Net Literacy)も備わっていなかった。そもそもそういった発想自体無かったと言っていい。
結果として、ネット上の議論は、偏向した考えに基づいたより先鋭化したものばかりが注目されるようになった。この時期、ネットを中心に、まずはじめにナショナリズムを煽る煽情的な言説が多数現れた。そこから次に自らの立場を脅かす政治的な問題が「発見」され、その問題とともに「敵が作られていく」という歪な流れを辿る人々が保守派の議論の中から現れ始めていた。彼らは、ネット上で極端な意見を繰り返していった。こうしてネット右翼と呼ばれる人々が登場してくるのが、2000年前後である。
このネット右翼、すなわちネトウヨが一般に認知されるきっかけとなったのが、2002年の日韓共催のワールドカップだったと言われている。ネット上で韓国を激しく罵倒したのがこのネトウヨたちだった。この後、『嫌韓流』(2005)という反韓感情を露骨に表現した著書が出版され一般の書店の店頭で何の躊躇もなく平気で販売された。
これ以降、論理的な思考を欠いたままの剥き出しの差別感情を公に述べることが、社会的に容認されたかのような雰囲気を一部の人々に与えてしまったのである。こうした差別感情に根ざした政治的主張は、ネットのなかで拡大再生産され、ネトウヨと呼ばれる人々をさらに生み出していく。そして、ゼロ年代半ば(2005年前後)には、ネトウヨという言葉は完全に一般に定着していた。
ネトウヨと呼ばれる彼らが問題として主張したことというのがまさに、中韓を中心とした外国の脅威であり、在日移民の持つ特権であった。彼らがもともと東アジアの国際関係や国内の移民問題に興味があったとは到底思えない。
日本が直面する政治的課題は他にも数限りなく存在する。それが、なぜ中韓と在日の問題だけが彼らにとっての最大の焦点になっていったのか?
彼らはまずはじめに外国への嫌悪感情を煽る扇動的な言説にネットを通して触れ、その後、政治的な問題意識に目覚め、そして中韓と在日という「敵」を発見した。
扇動的な言説がある種の疎外感や被害者感情を持った人々に受け入れられやすいことは歴史がいくらでも証明している。そして、それが「真の敵」である必要がないことも歴史は教えている。彼らには自分の疎外感や不安を生み出すものが本当に中韓および在日であるかどうか確かめる必要すらなかった。どれだけ批判、糾弾しても許される敵の存在と、それを正当化する大義名分だけが必要だった。
このような排外主義の背後にある感情は、自己の存在についての不安感だろう。中韓及び在日勢力の脅威によっていかに自分たちの生活が脅かされているか、という被害者感情である。結局、社会への関心から政治意識を持ったのではなく、自身の置かれた経済的、社会的状況の不遇さと疎外感から、その責任を転嫁するために、政治的な「問題」を発見するという歪な思考の流れがあっただけなのだ。
ネトウヨの主張の背後にあったものとは、このような倒錯した意識である。ある意味、90年代の保守思想に共感した人々と同じような自己同一性不安を抱えていたのかもしれない。しかし、それに対する答えは、180度違うものになった。
90年代の自己の精神的拠り所を発見するための歴史認識を持とうとする思想運動が、いつのまにか「日本を守る」という主張に安易に結びつけられ、その結果「日本を脅かす存在を排除する」という排外的な政治的主張へとすり替えられていった。
90年代後半につくる会が主張していた戦後価値意識の転換や日本人としての誇りといった問題は、ここではすでに何ら関係のないものになっていた。
差別意識の現実化~ネットから現実へ(ゼロ年代後半)
そしてゼロ年代も後半に入り、事態はよりいっそう悪化する。
ネトウヨの言説は、当初、ネット内だけのものにとどまっていた。ネトウヨたちはほとんど社会の表へと、つまり現実(real)の世界へと出てこなかった。実際の政治運動、社会運動にはほとんど関わらず、ネットで差別的な発言を繰り返して日常の憂さを晴らすのがせいぜいだった。
しかし、ネット上の議論だけはより先鋭化したものになり、より排外的、差別的な様相を強めていった。
その間、つくる会を主導した言論人、知識人たちやそれを支持していた人々はどうしていたか?
ほとんどの人が、こうしたネトウヨという社会現象を見誤っていたのではないか?批判することも、問題提起することすらほとんどなかった。「愛国心」や「日本を守る」といった主張の中で、ネトウヨの歪んだ社会意識は容易に見過ごされていく。そして彼らが気付いた時には、ネットの中の差別感情は現実のものになっていた。ネットの言説をそのまま真に受け、現実に実行しようとする組織が実際に現れたのである。
ゼロ年代半ばから10年代初頭にかけて、在特会やチャンネル桜の抗議集会、フジテレビ抗議デモなど、現実の活動に参加する人々が、より下の世代、より若い人々を中心に多数、現れ始めた。特に、ゼロ年代末から問題になり始めた在特会のような過激な運動に参加してしまうような一部の直情的な若者を焚きつけ生み出したのは、間違いなくネットの右翼的な言説だ。
デジタルネイティブと呼ばれる物心ついた時からスマホに触れているような一部の若者が、こうしたネットの議論にやすやすと絡め取られ、何の思考的反省もなく人種差別的な思想を真に受けてしまった。彼らが、現実の社会運動へと実際に参加してしまう背景には、若者を取り巻く経済的な環境の悪化があったことは確かだろう。
90年代から「失われた20年」と言われる長期化した経済不振が続き、産業の空洞化とデフレ経済が深刻化して、若者を取り巻く就職状況はまったく様変わりした。非正規雇用が一般化して、経済格差が歴然と現れてきていた。ネトウヨの言説は、こうした低辺層へと追い込まれた一部の若者の鬱屈した感情をうまく掬い上げたのである。
2000年前後からネトウヨと呼ばれる人々が登場し、在特会のような現実的な差別行動を起こす組織が現れてくるまで、10年程の月日が経過している。当初の90年代の保守思想を知らない若い世代が登場してきた。そして、根拠が不確かで扇動的なネットの情報から政治活動や言論に触れたものが段々と多数を占めてくるようになれば、そこから現実に差別的言動を実行する組織が現れてくるまでは、ほんの一歩だ。それは、時間の問題だったとも言える。
本来、具体的な政治的活動を行うのであれば、まず自分の中に「社会」というものに向き合う中で自然と生じた問題意識があったはすだ。その問題に対峙する中で、人は、社会に対する責任を自覚していく。この社会に対する責任感から、次第に政治的主張が生まれてくる、というのが健全な「愛国者」の姿だろう。そして、自分の余力の許す範囲で政治へと関わっていく。それが「責任ある大人」としての本来の態度だと思う。
一部の直情的な感情を安易に政治的な活動に結びつけるのは極めて危険な行為だ。それぞれ関連性のない個々の具体的な政治的主張が、愛国心の名のもとに安易に煽動されていった。「愛国心」というものが、なんら思想的、論理的な反省を欠いたまま、思考の飛躍がなされていた。日本人としての誇りは、在日及び外国人の排斥感情に、国益は、外国の脅威へと簡単にすり替わった。
そして「国のため」といった大義名分が一度与えられると、その名目の下に自らの権益を守るためだけのさまざまな利己的、個人的な動機に基づいた主張が盛り込まれていくようになる。
嫌韓・反中意識の日常化(2010年代後半以降)
2010年代にも入ると、インターネットは成熟を迎える。国民一人ひとりがスマホを持つ時代だ。一部のパソコンに詳しい人だけがネットに触れるという時代ではなくなった。
ネットで情報を得ることが当然のこととなり、それとともにネットに関する読解力(literacy)も一般に広まっていった。今では、ネット上の議論が偏向したものになりやすく、先鋭化しやすいということへの理解もほとんどの人が持っているだろう。
ネットがこのように一般的なものになるにつれて、一部のネットの過激な言説に影響されて、現実の運動に飛び出していくというような若者は、次第に減っていった。ゼロ年代の後半から10年代初頭に見られたような抗議集会やデモは、それとともに下火になっていった。もともとこのような運動に参加する人々に、大した社会意識など初めからなかったのだろう。一時の盛り上がりが過ぎ去ってしまえば、それで終わり、だ。
若い世代もネットの極論にはついてこないし、この頃には、ネトウヨの主体も中高年層、30代から40代くらいに移っていた。社会運動をやるには彼らは年を取り過ぎている。
その一方で、ネット上の言説、ネトウヨの方は、より状態化して、一般化したともいえる。
ネットとマスメディアの情報の大きな違いは、ネットの場合、利用者が自ら情報の取捨選択を行ってしまうため、手にする情報が異常に偏るという点がある。
情報が多様になった反面、嫌韓反中を煽る「まとめサイト」や個人ブログが大量に出回りだした。特にまとめサイトには極めて悪質なものが多い。
こうした公平性も客観性も欠いた情報に日常的に触れる人々が一定数存在し続けているのだ。こうしたネット成熟期のネトウヨたちは、意外と根強く関心を持ち続け、日常的に関連情報を収集していたりする。
こうした層の存在は、出版状況も大きく変えてしまった。出版不況と言われる中で、嫌韓・反中を煽るものは、一定数、確実に売れるのだ。町の本屋では、どこでも、嫌韓・反中の関連本、広い意味でのネトウヨ本で一つのコーナーができ上っている。
こうした状況は、お隣、韓国でも同じようで、韓国版のネトウヨ「ネチズン」たちが、反日感情を煽る言説を繰り返している。韓国の場合、政権が国民の反日感情を政局に利用しよとする事情があるため、度々、過激な反日抗議活動が生じている。
そして、そのたびに、日本のネトウヨたちが反応するのだ。彼らは、韓国と鏡像関係にある。そして、片方が鳴れば、もう片方も鳴るといった具合に、共鳴関係にもある。お互い増幅し合っているせいで、ネタには事欠かない。そのため、彼らにとって、嫌韓・反中関連の情報を集めることは、ごく当たり前な日常的行為にまでなっている。
ネトウヨは、ネットがより一般に普及したのに伴って、現実にデモや抗議活動を行うような先鋭的な活動は下火となったが、一方で、より一般化し、一部の人々には、それがアイデンティティになるぐらいにまで深く定着していった。
こうした人々は、日々、まとめサイトを閲覧して情報を収集し、ネトウヨ本の購買層となっている。
こうした「固定層」ができ上ってしまったせいで、ネトウヨは一時の社会現象とはすでに言えなくなってきている。なんらかの規制なり罰則なりがなければ、彼らの差別的な言論は、もう止めようがないところまで来ている。
本当の愛国心
90年代の保守派の議論は、現在でも見返す価値があると思う。
しかし、ネットが普及するにつれて、保守派の議論が変質し、ネトウヨが登場するに至って以降の議論に関しては、注意が必要だろう。この10年ほどの間で、膨大な数のネトウヨ関連本が出版されている。これらの書籍は、まさに玉石混淆といった感じで、価値あるものから悪質なものまで非常に幅が広い。基本、この手の本には触れないのが一番いいかもしれない。玉5分、石9割5分といった割合だからだ。
今では、私は、愛国者や保守主義者を自認する連中に対して、疑念と失望感しか覚えなくなった。
ネトウヨのような歪な議論を放置しておけば、本来の「愛国」という言葉の意味も失われていくだろう。
私自身は、愛国心とは、「国を愛する」ことではなく、「国を憂う」ことだと思っている。
ネトウヨの議論は、愛国心に関する理解が、「日本に生まれてきて良かった」→「日本が一番」→「ニッポンマンセー」→「日本に文句があるやつは出ていけ!」という思考過程を辿っているように見える。
しかし、日本の発展に尽くしてきた歴史上の人物たちは、間違いなく、「憂国の士」だった。日本の将来を憂い、日本のために何をすべきかを考えていたはずだ。そのためには、時に、日本の現状を批判し、改革も断行した。現状維持がすべてという今の保守派とも一線を画すものだった。
今では、「保守」や「愛国」という言葉は、現状維持と排外主義しか意味しなくなっている。もう私は、この言葉に不信感しかない。
憂国――
本当に国を憂うことのできる人物だけが、信頼に足る、私はそう信じている。