中国の市民社会化はなぜ失敗したのか? – 転換点の2001年を振り返る

2001年、中国の世界貿易機関WTOへの加盟

 1978年、鄧小平指揮の下、改革開放を実施し、市場経済を導入した中国。以来、急速な経済発展を進めて、世界の工場としての役割を果たしてきた。
 そして、2001年12月、中国は世界貿易機関WTOに加盟。
 中国の国内総生産(GDP)は2000年に初めて1兆ドルを超え、世界7位になった。中国の貿易総額も同年に4000億ドル台に達し、やはり世界7位につけた。経済規模では既に「主要七ヵ国」の一員ともいえた。

 今、振り返って考えてみると、この2001年は、中国が西欧型の近代市民社会になれるかどうかの分水嶺だった。
 1992年、当時の江沢民党書記が社会主義市場経済を掲げて、市民的自由は制限しつつ、経済活動だけは自由にするという統制経済の一形態が採用された。これは、国民を安価な労働力としてしか捉えていない考えで、工業生産力の向上だけを課題としていた90年代は、うまく機能したが、国内市場の発展のためにはかえって足かせとなるものだった。
 中国が生産力を高め、安価な労働力を背景に国際競争力をつけてくれば、当然、中国元の切り上げ圧力になるし、自らの過剰生産力が国際価格の値崩れを引き起こすことになる。いずれ、内需成長型に移行していかなくてはならなかった。そして、内需成長型の経済に移行するためには、市民社会の成熟が不可欠なのだ。
 その世界の工場から市場に移り変わっていく転換点がまさに2001年だった。

 90年代、江沢民・朱鎔基政権下では、市場を自由化する一方、政治的には権力のより一層の中央集権化を進めていった。1993年、総書記・党中央軍事委員会主席を兼任していた江沢民は、国家主席に就任して権力を一元化した。
 だが、中国の市場経済が成熟するにつれ、資本家、富裕市民層の台頭は避けられなくなる。そこで、2000年、江沢民国家主席は、新たな党建設理論として「三つの代表」を提唱する。これは、階級闘争史観および、中国共産党が「労働階級」を代表するという考えに修正を加えるものだった。
 「三つの代表」とは、共産党は、①先進的な生産力の発展、②中国の先進文化の前進、③広範な国民の根本的な利益を代表するというものだ。これにより、企業経営者や富裕層(ブルジョワ階級)も党を支える一員であることが党理論として認められた。
 「三つの代表」の狙いは共産党がこれまで敵対視してきた資本家を党内に取り込むことだ。プロレタリア独裁政党から、国民の広範な層を代表する「国民政党」へと脱皮しようとする姿勢が窺われる。

2001年、江沢民は、党創立八十周年の演説で次のように宣言した。「私営企業経営者の入党を認める」。だが、資本家の入党問題は党内の保守派から反発を招くことになる。

 朱鎔基首相が推進する国有企業改革は、企業経営への政府の介入を排除する「政企分離」を目指している。確かに欧米流の企業統治(Corporate Governance)が芽生え始めたように見える。だが、その半面、共産党の私営企業への急接近は「党企分離」とは逆の方向のようにも映る。

 約180万社の私営企業が加盟する全国団体、中華全国工商業連合会の王治国副主席は当時、「失業問題や税収を考えれば、共産党はわれわれと離れられない」と私営企業の存在意義を強調していた。
 人口13億の中国で共産党員は6000万人強。共産党は資本家を取り込むことで階級政党から「国民政党」への脱皮を模索する。党が企業を呑み込むのか、企業が党を変えるのか。そのせめぎ合いが、まさに新しい世紀から始まっていったのだ。

脆弱な市民階級

 著しい経済発展を遂げた中国だったが、市民の力はまだまだ弱かったと言える。
 中国の2000年の一人当たりGDPは855ドル。同年の一人当たり年間電力消費量は1071kW/h、エンゲル係数(食費が家計費に占める比率)は同年に初めて39.2%になったばかりだった。

 これらの経済指標は、1960年代前半の日本の各種経済指標とほぼ同等。国全体の経済水準は日本より30年遅れといった状態だ。だが、沿岸都市の上海の一人当たりGDPは既に4000ドルを突破し、日本の70年代半ばに匹敵していた。

 沿海部とは対照的に内陸部は経済的に恵まれていない。内陸で最も貧しいといわれる貴州省の一人当たりGDPは340ドル。これはバングラデシュやスーダンなどの発展途上国と同様の経済水準だ。

 さらに、WTO加盟で一番打撃を受ける中国の産業は内陸部の農業だ。小麦、トウモロコシ、大豆、綿花などの国内価格は国際価格よりも高い状態だったが、関税率引き下げで輸入が急増していった。国務院発展研究センターの試算では加盟の5年後に、小麦、綿花農家だけでも1038万人の失業者が出ると予想された。

 だが、国際競争力に富む強い農業もあり、野菜はその代表格だ。ネギ、生シイタケなどの中国産農産物に対しては、日本政府が暫定的な緊急輸入制限(セーフガード)を発動した。WTO加盟で輸出が増え、5年後には151万人の新たな雇用を生み出すとの見通しが立てられた。
 強い農業を企業経営化や大規模化で攻める農業に育てる農業構造改革が始められた。農業省によると、企業と提携したり、農地を貸与する動きが全国に広がっており、農業の企業経営への転換が進んでいる。穀物分野では農業経営企業の指導により、2001だけで良質の稲、小麦、トウモロコシの作付面積が500万ヘクタール余り増えたという。
 一方で競争力を欠く農地はとりつぶしている。傾斜20度以上の低生産性耕地を林や草地に戻す事業が環境保護も兼ねて始まった。2000年だけで75万ヘクタールの耕地に木や草が植えられた。農民は代わりにわずかの補助金を受け取った。

 中国はWTO加盟交渉で途上国並みの農業補助金を認めるよう最後までこだわり、農業生産高の8.5%の補助金を認めさせることに成功した。朱鎔基首相は2001年春、「農民の余剰食糧を保護価格で無制限に買い上げる」ことを約束。第十次五カ年計画は「農業の地位強化と農民の収入の増大を経済活動の最重要任務とする」と説明した。「改革の鬼」と称される首相も、穀物生産農家に関しては、補助金で保護しながら時間を稼いで構造改革を進めるしかないようだ。

 農村には人口の7割の9億人が暮らし、1億5000万人の余剰労働力が滞留しているとされる。WTO加盟で失業者が増えれば、社会の安定が揺らぎかねない。

道を誤った中国

 2001年以降、沿岸部と内陸部の格差はむしろ広がった。中国には都市部と農村部を分ける戸籍制度が存在する。本来は、経済格差の前にこの法的差別を解消しなければならなかったのに、都市部の既得権益を保護するために、手つかずのままとなった。経済的、法的格差が解消されないままでは、安定的な市民社会は実現できない。
 結局、中国共産党が選んだ道とは、社会の安定を守るためより権力を集中させる道だった。習近平政権成立以降、その動きは顕著となっている。中国は完全に道を誤っている。

参考

日本経済新聞社[編]『中国 世界の「工場」から「市場」へ』日経ビジネス人文庫 (2002)