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格差問題をまるで理解しない(自称)専門家たち – 山田昌弘『希望格差社会』

格差社会 政治
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書評(残念な本)
山田昌弘『希望格差社会』(2004)

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文明批評を根拠に語る経済問題

 発表当時、非常に話題となり、かなり売れた本である。しかし、内容自体は極めて粗雑で、流行語を生み出したこと以外には、ほとんど価値はない。(断言する。)

 現在の日本では経済格差が拡大して社会問題となっている。本書では、このような格差の背景を考察するにあたり、社会学における近代化論が援用されている。

 ——ん!?

 格差問題は、現在の日本が抱える政治・経済の問題である。一方、社会学の近代化論とは、歴史観をめぐる議論であり、基本的には文明批評の一種だ。政治・経済問題に文明批評を持ち出すこと自体、きわめて的外れな議論であるにもかかわらず、著者は近代化論という文明批評を根拠に、現代日本の格差問題を論じることに、全く疑問を抱いていないようだ。

 著者はまず、近代化論に基づいて、高度経済成長期を「近代」、1990年代以降を「後期近代」と分類する。そのうえで、後期近代においては、人々が自由を求め、自由度が高まった結果として、リスクが増大していると主張する。
 
 そして、この「自由というリスク」が増大した結果、一部の中核的な正社員になれる人々と、アルバイトなどの周縁的な労働者とに、労働市場が二極化しているという。さらに、この二極化は経済構造の転換によって引き起こされたものであり、〈正社員という「席」の数〉自体は増えないため、周縁労働者に追いやられる人々は今後も増え続ける、と結論付けている。

経済政策という視点の欠落

 なぜ後期近代では自由度が増し、自由度の増加がリスクの増大を招き、さらにリスクの増大が二極化を進めるのか——まったく理解できない。ただ漠然とした「雰囲気」で語られているだけで、まともな論拠は見当たらない。この点については、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、これ以上触れない。

 問題は、著者のこの議論には、まず経済や経済政策という視点がまったく欠けているという点にある。1990年代以降の長期不況は、政府および日本銀行による金融政策の失敗により、デフレが進行した結果もたらされたものである(デフレは、マネタリーな現象だといえる)。さらに、国際競争が激化する中で、企業にはコスト削減が求められた。一方、日本の雇用慣行においては、解雇規定が非常に厳しく、賃下げもほぼ不可能であったため、人員整理が思うように進まなかった。

 その結果として、多くの企業が新卒採用の抑制、外部委託の増加、非正規雇用の拡大といった手段で対応するようになり、それが労働市場の二極化を引き起こした直接的な原因であると考えられる。

 「人々の自由度が増えたから二極化が進んだ」といった議論は、まったくのナンセンスである。真の問題は、正社員が既得権益化している点にあり、本来ならば、労働市場の流動性を高め、若者に雇用機会を広げることこそが求められる。
 にもかかわらず、著者の「近代化論」に基づく議論は、あたかも二極化が歴史的な必然であるかのような印象を読者に与えてしまう。

 「希望格差」という言葉は、既得権益を守る中高年正社員や経団連にとって、実に都合のよいレトリックであろう。

ただのトンデモ本

 著者は終始、このような調子で文明論を展開しており、議論を裏付けるために用いているのは、データや統計ではなく、すべて「文献」である。海外の著名な社会学者が記した文明批評を根拠に、現代日本の経済問題を論じるという、まさにトンデモ本だ。これが「学者の知性」だというのなら、あまりにお粗末である。

 さらに、「希望格差」という著者の立論そのものが、でたらめと言って差し支えない。
 まず、著者の言う「希望格差」とは、どのような状態を指すのかがまったく不明である。二極化が進んでいる → だから希望格差だ!という短絡的な思考で生まれた造語にすぎず、その定義は曖昧なまま放置され、そのまま「雰囲気」だけで使われ続けている。そのため、明らかに矛盾した内容に対しても、著者は何のためらいもなくこの言葉を使い続けている。

 たとえば、「フリーター」についての議論。著者はフリーターが、自分の実力や能力に合わない期待を持ち続けていて、それを諦める機会を失っていることが就職を妨げていると述べる。つまり、希望を人よりも強く持っているのがフリーターだと言う。しかし、そう言った直後には「フリーターという、将来に希望を持てない下層階級が増えている」とも述べている。
 要するに、著者自身が「希望格差」という言葉によって何を説明したいのかを理解していないのではないか。

 まさに、キャッチーな言葉ばかりを探し、流行語を生み出すことだけに専念している著者らしい思考態度である。文庫版のあとがきでは、著者が講演中に「聴衆が『希望』という言葉の意味を理解してくれない」と嘆いているが、思わず笑ってしまった。それは聴衆の理解力の問題ではなく、著者自身の説明力の欠如に原因がある。そもそも、著者自身がよく理解していない「雰囲気だけの言葉」を、どう理解しろというのだろうか。

 さらに著者は、かつての受験競争は人々の希望をふるいに分け、実力に応じた企業に就職させる非常に優れた機能を持っていたなどと述べている。

 大量生産・大量消費が中心だった時代には、個人の資質よりも、教育のしやすさや事務処理能力といった“要領の良さ”が評価されていた。そのため、受験の結果が能力の指標として機能しやすかっただけだ。しかし、現在は市場の動向が不透明化し、多様化が進んでいる。こうした時代において、受験勉強はもはや個人の能力を測る十分な基準とはなりえない。

 本来であれば、新卒採用偏重の硬直的な労働市場や、学歴以外の評価軸が存在しないという構造そのものが問題なのであり、根本的には日本の労働市場の極端な閉鎖性が原因である。
 しかし、”受験競争エリート”の著者にとって、こうした「受験的要領の良さ」以外の資質や価値など、何も見えてこないのだろう。

 このような誤った視点を持つ学者が、若者の「希望」について語ろうとしているのだから、実にたちが悪い。断言するが、絶対にお金を払って読む価値のない本。

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