読書案内
佐伯啓思『自由とは何か』(2004)
2004年刊行。
自由という身近でありふれた概念をその思想的な根拠から問い直している。今の日本であまりにも当然のものになりすぎて、切実感の失われた自由というものに対して、いかにその意味を問い直すかが本書の主題だ。
自由の歴史的背景
著者はまず自由という概念が現れた歴史的背景から検討している。
近代的な自由の概念は、絶対王政下における身分的抵抗の中から現れた。その後、この自由という概念は、さまざまな思想家の議論の中で彫琢され、社会や国家から自立した自由な個人という理念へと発展していく。
近代的な意味における自由は、拘束、障害、抑圧からの自由を第一義とする。そのため、近代思想の文脈の中では、自由は本質的に道徳に対立し、政治的には権力に対立することになる。
しかし、人が社会の中で生きる以上、道徳や権力は不可欠なものだ。ホッブスの社会契約論やカントの道徳律の議論は、人間の自由を絶対的な条件として認めた上で、いかにして権力や道徳を正当化させるのかという試みだったと言ってもいいだろう。
だが、カントの時代のような宗教的な背景を当てにすることが出来なくなった現代では、リベラリズムは、功利主義的な方法でしか権力や道徳を正当化する方法を持っていない。
行き詰まる自由の概念
ここに現代リベラリズムが陥るディレンマがある。
最大多数の最大幸福を権力の正当化原理として掲げると、大多数のものにとって有益と判断されさえすれば、差別や虐殺も正当化されかねない。また合理的な思考に基づかず、自己利益すら否定して行動するものを批判する根拠がなくなる。
つまり、今のリベラリズムには、多数者の圧制や破滅型の個人を拘束する思想的根拠が存在しないのだ。
リベラリズムにおいて権力の正当化に失敗すれば、残された道は、全体主義かアナーキズムしかなくなる。
リベラリズムの思想的な行き詰まりの結果が、今のアメリカにおけるイラク戦争の正当化や宗教原理主義の台頭などに現れている。
一方、日本におけるリベラリズムの限界は、教育の問題として端的に現れた。子供たちが、殺人や売春を個人の自由と言ってしまったとき、それを諭すべき大人(社会)の側には、何も反論する論拠がなかったのだ。
「個人の自由なのだから仕方がない」そう言って何もせずあきらめている無責任で無気力な大人の姿が、今の日本の社会では溢れかえっていたのだ。
佐伯氏の問題意識は、この点に根ざしている。リベラリズムの限界をどう乗り越えるべきなのか。
ここで佐伯氏はバーリンの消極的自由の再評価を試みるが、「~からの自由」という消極的自由によって、私的領域の確保と社会的多元性が保障されたとしても、それでも価値と価値の抗争は残るとしている。
そこで著者は、個人に先立つものとしての社会、具体的には国家を個人が引き受ける必要があるという。個人は無条件に存在し、自立するものではなく、その前に社会というものに支えられて存在している。そのような端的な事実をまず認めることから始めるべきだという。
結局、リベラリズムのディレンマを乗り越えるためには、個人を超える存在を持ち出さなくてはならない。それが著者にとっての国家が持つ意味だ。この議論は、見方によれば、カントの道徳律と非常に似た理論構成をとっている。つまり、ここでは、国家が超越的な道徳律として、非常に世俗的な形をとって現れているのだ。
国家の役割
著者の議論はここからかなり雑駁な展開になる。国家を持ち出すことで、この議論を一気に乗り越えようとする著者の議論は少し性急過ぎる印象を受ける。
確かに、現代では国家が唯一、個人の存在を保証し拘束する正当性を有している。
だが、個人を超える存在として国家だけを認めるその態度自体が、歴史的な偶然に基づいた便宜的なものでしかなく、功利主義的に認められているに過ぎないとも言い得る。
リベラリズムに限界があるとしても、国家はそれを止揚するものではなく、一部に修正を加えるだけのものであるはずだ。リベラリズムと国家が対立しているわけではないのだから。
本来ならリベラリズムの限界を止揚するためには、この点を理論的に正当化できなくてはならないはずだ。だが、著者の議論はリベラリズムの限界を示して国家の必要性を示唆したにとどまっている。
今後の課題へ
新書という体裁のせいもあるだろうが、本書の主題はここまでといったところだろう。あとは、リベラリズムをめぐるさまざまな逸話にページが割かれている。
話題が多岐に渡りすぎていて、若干まとまりに欠けているようにも感じる。(個人的には、ケインズを中心とした20世紀初頭のケンブリッジサークルの話は非常に興味深かった。)まぁ国家の正当性をめぐる議論は別の機会に、といった感じだ。
著者が個人を超える存在を示唆している点は、現代の人命尊重の観点からは多くの異論が出るかもしれない。個人を超える存在というと非常に性急で極論といった印象を与えかねないが、それでも日本の教育問題やアメリカの外交政策への違和感より始まる著者の思索は、何よりも地に足の付いた議論だと感じる。
西欧の人権思想を表層的に受け入れ、思想史を紹介注釈をしているだけの議論とは明らかに一線を画している。本来、生きた思想というのはこういったものをいうのだろう。その意味で学術的議論に関心のない人にとっても非常に意味のある議論だと思う。
日本にいて当たり前のように享受している自由というものについて一度は、その正当性と意味を疑ってみることも必要なのだろう。