日本現代戦争史素描 後編 – 満州事変と第二次世界大戦

『東京停車場之前景』(1919年)

第一次世界大戦の終結と国際秩序の変容

 日露戦争後の日本は、朝鮮を併合し、南満州鉄道も手に入れたことで、ようやくヨーロッパの国々と同様に植民地経営を行い、国際社会で西欧諸国に伍してやっていける時代になった。また明治維新以来の外交的課題である不平等条約の解消もほぼ成し遂げていた。

 日本が列強の一角として台頭してきたちょうどその時期、東アジアでは政治的空白地が出現する。

 1911年に辛亥革命が起こり、以降、中国大陸は無政府状態が続いていた。
 1914年には、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパ諸国の極東への関心が一時的に薄れることになった。さらに、ロシアでは1917年、ロシア革命が起こり、ロマノフ王朝が倒され、ソビエト政府が新しく発足した。この新政府は、帝政ロシアの結んだ秘密協約をすべて一方的に破棄し、それに伴い満州から撤退した。この革命によって北方にも政治的な空白が生まれた。
 この時、日本政府や軍部は、ユーラシア大陸の東部にある種の政治的空白と無秩序状態が生まれたと認識するようになった。

 1918年、ヨーロッパに未曾有の被害をもたらした第一次世界大戦が終結。戦死者1600万人、負傷者2000万人、行方不明者・傷病者800万人をもたらしたこの戦争がヨーロッパ社会に与えた影響は甚大だった。
 反戦平和の国際世論が高まり、国際連盟の結成、パリ不戦条約へとつながっていく。この時、人類史上初めて戦争が非合法化されるのである。
 一方、第一次世界大戦での日本の被害は戦死者415名のみだった。多くの日本人にとって、この国際世論は全く実感のないものだっただろう。むしろ、1919年は大戦景気に沸くことになった。このため、日本は国際秩序と戦争観の変化を全く意に介さなかった。これは後の泥沼化する戦争の遠因となっていく。

 1919年のパリ講和会議、そして1921年のワシントン会議は、国際協調、軍備縮小を掲げ、1920年代の小康状態を世界にもたらす。日本が国際政治に参加する資格をようやく得た時点で、国際社会は新しい趨勢へと変化しだすのである。

満州事変と日本の孤立

 1920年代が終わるころには、アジアの情勢は、ワシントン体制を維持できない状況に変わりつつあった。
 ワシントン体制は中国に権益を持つ先進諸国が中国を管理する体制であり、中国を独立した主権国家として位置づけてはいなかった。
 ところが、この時の中国はすでに以前の中国の姿とは変わっていた。辛亥革命の結果、中国にはナショナリズムが急速に芽生えていた。1920年代の終わりには、蒋介石の国民党が全国統一を進め、19世紀の怠惰な王朝政治からの脱却を図っていた。
 国民党の勢力が華北に及ぶと、日本は満州の権益をめぐって脅威を感じるようになる。しかも当時の国民党は排外主義の高揚を背景として、諸外国の権益の即時奪還を主張していた。
 さらにロシアでは、ボルシェビキ政権が生まれ、北方からの共産主義の進出が非常に大きな脅威として意識され始める。
 他方で第一次世界大戦が終結し、列強の目が再び中国の権益に向かうことになった。

 第一次世界大戦後、極東では一時的に政治的空白が生じたが、それが日中ロ米の進出を誘発し、1930年代には一触即発の混迷状態を招いていた。
 そのため日本の軍部、特に関東軍の中に、満州一帯を中国から切り離し、緩衝地帯にしようとする構想が生まれてくる。その間、日本主導で満州を産業化し、ソビエトの南下を防ごうと考えた。関東軍は、この構想に基づき、密かに独自の極東戦略を計画しだす。これはのちに満州事変として実行されることになる。 

 一方、日本政府にとってソ連への対抗は、当初、国防、および外交上の問題であったが、すぐに国内的な課題にもなっていく。国内の共産主義勢力が急速に伸長していたためだ。ソ連との国交樹立と並行して1925年、治安維持法が制定される。外国から指示を受けて行動する革命政党に対して、従来の治安法規では不十分であるとの認識からだった。
 当時、日本の社会には、社会主義、共産主義に対抗する理論もイデオロギーも存在していなかった。1920年代とはこうしたなかで日ソの冷戦時代が続くのである。1930年代には、日本でも、共産主義という原理主義に対抗して原理主義的に解釈された国体思想が登場する。明治憲法下の立憲制と政党政治は、こうした左右の原理主義の噴出に徐々に耐えられなくなっていく。

 東アジアで日本の軍事力が目立つようになると、アメリカは門戸開放政策を採り、日本への警戒を強めるようになった。日本の進出を牽制するアメリカなど欧米列強としばらくは協調路線をとった日本だが、軍部はそれに反対、海軍は統帥権干犯問題(1930)や五・一五事件(1932)などを起こして激しく抵抗した。一方、関東軍は、かねてより計画していた満州事変(1931)を実行する。日本政府は軍の統制が全く取れない状況になっていた。

 1932年、関東軍は満州国を成立させた。翌1933年国際連盟は、満州国不承認を決議し、日本は国連を脱退を決定。満洲国は、国際社会から承認されず、日本の独自外交、自主路線を強める契機となった。

 関東軍は溥儀と密約を交わし満州国を実質的に支配した。国防と治安は日本に委ね、その経費は満州国が持った。鉄道、港湾、水路、航空路の管理はすべて日本に委ねられた。日本人を満州国参議に任じ、中央地方の官署にも日本人を採用。その選任、解任は関東軍司令官の同意を必要とした。政治の中心は国務院で、その長である国務総理は中国人だが、実権はその下の地位にいる日本人総務長官に握られていた。

 満州事変の首謀者であった石原莞爾は、建国後半年もしないうちに東京に戻されることになった。独自の世界戦略を持ち、満州国の明確な運営方針を示していた石原が去ったのちは、満州国の独立国家としての体裁は急速に崩れ、ただの植民地となっていった。満州国が掲げた五族共和という理想も吹き飛んだ。
 石原は、満州国を当分の間、緩衝地域として安定させ、その間に強大な産業力を持つ友好国家として発展させる計画だった。そして、その国力を背景に将来必ず勃発するアメリカとの最終戦争に勝利する、という遠大な戦略があった。そのため、1937年、関東軍が盧溝橋事件から中国との戦争に入ろうとした時、陸軍参謀本部作戦部長となっていた石原は強く反対した。まだ十年の安定が必要、そもそも敵が違うという考えだった。
 だが、日本はこれを機に、中国進出をより一層進めていくことになる。

 1931年の満州事変では、関東軍の行動は明らかに計画的であり、侵略的意図があった。当初こそ国際連盟を中心に激しい非難が起きたが、満州国の建国宣言以降はほぼ黙認された。満州は歴史的に中国の領土としてみなされておらず、また、日本の行動を過度に批判すると中国本土に対して持っている自己の権益の正当性も危うくしかねなかったからである。
 それに対し、1937年の支那事変は、はじめは偶発的なものだった。だが、この日本の軍事行動に対し、西欧諸国は強い関心を払い、激しい非難を行った。支那事変における日本軍の侵攻は、明らかに中国本土に対して行われたからである。以降、日本に対する国際世論は硬化の一途をたどることになる。

 すでに国連を脱退していた日本は、ここにおいて国際協調の路線を完全に捨て去ることになった。戦争や国際秩序に対する考え方が、第一次世界大戦以降大きく変化していたという事実を日本は軽視してしまった。

 その結果、日本国内にどのような考え方が生まれたかといえば、日本が国際社会の中で常に批判を受け、不利益を被るならヨーロッパ国際秩序に参画している意味はない、日本は東アジアで独自に秩序を形成し、その盟主になるべきだという大東亜共栄圏の構想だった。

 日本は自ら外交戦略の幅を狭めてしまった。残る道は、戦後秩序に反発を覚えていたドイツ、イタリア、ソビエトに接近していくことだけだった。そして、独露の複雑怪奇で騙し合い的な同盟関係に翻弄される結果になるのである。

第二次世界大戦

 日米戦争が始まる半年余り前、1941年4月、突如として日ソ中立条約が結ばれた。有効期間は5年とされた。日ソ中立条約の内容は、独ソ戦の際には日本が中立を守り、日米戦の際にはソ連が中立を守るというものだ。
 スターリンは、間近に迫るドイツ軍のソ連侵攻を米英の情報機関を通じて2月には知らされていた。だが、スターリンは、この情報をチャーチルの謀略と考えた。その1年半前の1939年8月に独ソ不可侵条約が調印されていたが、それでも万一、日独伊三国同盟を結んでいる日本がドイツ軍に呼応して東から攻めてこないよう東部戦線の安定化が必要と判断した。

 ソ連側には、さらに、日本軍部が北進論と南進論に二分されているとの情報を基に、日本を南進させるよう誘導する目的もあった。日本はスターリンの思惑通り南進の方針を固め、7月に仏領インドシナ南部へ進駐した。これは直ちに、アメリカによる在米日本資産の凍結および石油輸出の全面禁止を呼び起こし、対米英戦は必然となった。

 アメリカの対日政策は日本の南進を機に強硬となり、1941年11月26日には、最後通牒としてハルノートが突きつけられる。その約2週間後の12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、アメリカに対し開戦した。

アメリカ主導の戦後処理へ

 1945年2月、日独の敗戦が濃厚になると、ルーズベルト、スターリン、チャーチルの三者は、クリミヤ半島のヤルタで戦後処理について会談を行った。スターリンはこの会談で、ソ連軍がドイツ降伏後、2、3ヶ月以内に対日参戦すること、その見返りとして、日露戦争で失った南樺太の回収、満州における権益の復活、千島列島の併合を要求した。ルーズベルトはスターリンに対して妥協的な態度を取る。この要求は最終的に密約として認められた。

 ルーズベルト急逝を受け4月に新大統領となっていたトルーマンは、スターリンに対して強硬的であった。ヤルタ会談での密約を大統領になってから知り、激怒する。そして、原爆完成の目処が着いてからは、ソ連の領土欲に駆られた参戦は不必要と考えていた。
 7月16日、アメリカが原爆実験に成功すると、スターリンの対日参戦に対する焦りが出始める。まず8月下旬攻撃開始を勝手に11日に繰り上げた。そして8月6日に広島に原爆が落とされると、さらに繰り上げて8月9日攻撃開始の極秘命令を下した。トルーマンが原爆実験の成功後、日本への原爆投下命令を性急に出したのは、ソ連への牽制のためだった。日本にポツダム宣言を受諾させ戦争を終結させることで、ソ連の進出を阻止しようとした。すでにこの時点で米ソ冷戦は始まっていたのである。

 8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争は終結した。そして、アメリカ主導での戦後処理が始まるのである。

日本の戦争をどう評価するか

 第二次世界大戦が終わった時、アジアの植民地支配は終わりを迎えた。日本がアジアへ侵攻し、イギリス、オランダ、フランスの植民地体制を崩壊させた後、これらの国々が再び戻ってアジアの支配者となることはなかった。確かに、日本がアジアの植民地支配を解放するために欧米諸国と戦ったという言い方は正確ではない。だが、結果として、日本の行った戦争が欧米諸国のアジア植民地支配を覆したという客観的事実は残るはずだ。

 日本はこれを正当化することはできないが、アジア解放の意図や自衛戦争としての側面が全面的に否定されているわけではない。ヨーロッパ諸国は、自国の利益のために植民地を開拓していった。だが、それと同時にその地に結果として近代文明を広めることになった。またアメリカも侵略の結果として自由の理念を広めていった。日本も「侵略」の結果、アジアの植民地支配が終焉した、という歴史認識を持つことは批難されることではないだろう。

 むしろ日本の問題は、第一次世界大戦以降、戦争が非合法化され、国際秩序が国連を中心とした集団安全保障体制に変化していたという事実をほとんど理解していなかった点にあると言えるだろう。
 この事実を無視して、日本は19世紀型の正当な権利としての戦争を続けてしまった。20世紀の国際秩序では、戦争の遂行に正当性の証明が重要であり、国際社会からの承認が必要だった。日本に欠落していたのはこの認識である。

 大東亜共栄圏という日本の大義名分は、あまりに後付けに過ぎて、国際社会からの理解をほとんど得られなかった。自衛のための戦争という名分も、「生存圏」が拡大解釈され過ぎて、説得力を持たなかった。

 第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制は、敗戦国に対して懲罰的で戦勝国の権益だけを保護する不公平なものだったことは確かだ。また、アメリカは中国の権益を狙い、日本の進出を一方的に牽制した。当時の国際社会は公平性に著しく欠けていた。
 だが、それでも明治の日本国家が不平等条約を押し付けられながらも、ヨーロッパの近代的国際秩序に順応しようとしたように、20世紀型の国際秩序へ参画していく道もあったのではないだろうか。日本は人類に普遍的な価値観に基づいて自らを正当化し、国際社会を説得する能力に欠けていた。そのような思想的基盤すらなかった。それは今でも変わっていないのではないだろうか。

 東京裁判のように日本の戦争が一方的に断罪されるのは明らかな間違いだろうが、日本の選択が誤っていたことは確かだろう。
 過去を見つめることは、未来を考えることである。日本は二度と同じ過ちを犯してはならない。

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