ローマはなぜ滅んだのか?
——人類史上初の「世界帝国」は、いかにして終焉を迎えたか——
ローマ帝国の滅亡は、かつて自らが滅ぼしたライバル国家カルタゴの運命と、ある意味で重なっている。
カルタゴは一時期、地中海世界における商業と海洋覇権を手中に収めた強大な都市国家であったが、やがて国防を軽視したことで衰退し、ついにはローマによって滅ぼされた。
しかし皮肉なことに、そのローマ自身も、最盛期を過ぎると同じように国力の均衡を失い、内外の脅威に抗しきれず、滅亡への道を辿ることとなる。
カルタゴとの覇権争い
ローマが地中海世界を支配する「帝国」となる以前、古代地中海の覇権を握っていたのはカルタゴであった。
カルタゴは、現在のチュニジア共和国の首都チュニス付近に、フェニキア人が築いた小さな植民都市に始まる。
やがて大規模な商船隊を保有するようになり、西地中海全域に商館と植民都市を展開。商業によって莫大な富を築き、「海洋国家」として地中海の覇者となった。
注目すべきは、カルタゴが当時の都市国家としては例外的に「市民軍」を持たなかった点である。
当時のギリシャ・ローマ世界では、国民が自ら兵士として戦う「市民皆兵」が常識であったが、カルタゴは主に傭兵によって軍事力を維持していた。
海軍には市民が参加することもあったが、陸上戦力の多くはリビア人やヌミディア人など他民族の傭兵に頼っていた。
一方、ローマは徹底した軍事国家として台頭し、周辺の都市国家を次々と征服していった。ローマ市民は兵士としての義務を負い、軍事的な規律と忠誠心に支えられていた。
このような背景のもと、両国は必然的に激突することになる。それが、紀元前3世紀から2世紀にかけて続いた「ポエニ戦争」である。
ローマの覇権主義とその代償
紀元前264年、シチリアの覇権をめぐり、ついにローマとカルタゴが武力衝突に突入する。ローマ人はフェニキア人を「ポエニ人(Poeni)」と呼んでいたため、この一連の戦争は「ポエニ戦争」と総称される。
特に決定的だったのは、紀元前149年に始まった第三次ポエニ戦争である。これは単なる戦争ではなく、ローマによるカルタゴ殲滅を目的とした徹底的な破壊戦争であった。
この戦争では、強大な軍事力を背景に「正義の戦い」を標榜するローマに対し、カルタゴは独立と自由な経済活動の継続を求めて最後の抵抗を試みた。
しかし、ローマの圧倒的な武力の前にカルタゴは敗北し、紀元前146年、ついに都市は陥落。ローマ軍は報復として、カルタゴ市民を大量に虐殺し、都市を徹底的に破壊した。建物は焼き払われ、生き残った人々も奴隷として売り払われ、古代世界の一大商業都市は完全に姿を消した。
このように、ローマはまだ帝国化する以前の都市国家の段階から、すでに軍事力による覇権主義をその本質としていた。
当時のローマ軍の司令官であった小スキピオ(スキピオ・アエミリアヌス)は、カルタゴの壊滅的な光景と、そこに至る過程で見たローマ市民の変質に深い衝撃を受けたとされる。
そして彼は、次のような予言的な言葉を残した。
「いつの日か、ローマもこのカルタゴと同じ運命をたどるであろう。」
この言葉は、覇権への慢心と市民の堕落に対する警告であり、後のローマ帝国の命運を暗示するものとなった。
帝国化と市民の変質
その後、ローマは本格的に帝国として発展し、軍事力をもって急速に領土を拡大していく。しかし領土が広がるにつれ、国家の根幹を支えていた「市民の自覚」と「兵役の義務意識」は徐々に失われていった。
かつての「市民皆兵」の伝統は崩れ、市民による軍隊を維持することが困難となり、代わって登用されたのが各地から集められた傭兵たちである。
こうしてローマ帝国は、巨大な領土と複雑化した行政機構を、忠誠心の薄い傭兵たちに依存する体制へと移行していった。だが、この構造は根本的な不安定さを孕んでいた。
そして、象徴的ともいえる出来事が起こる。西ローマ帝国の最期を飾ったのは、ローマに仕えていたゲルマン人傭兵隊長オドアケルによる、皇帝の廃位と帝国の終焉であった(476年)。
ローマ帝国は、覇権を得るために用いた軍事力と、それを支えた市民の献身によって繁栄した。だが、その覇権主義が極まり、市民意識と軍の一体性が崩壊したとき、帝国は自らの重みに耐えきれず、滅亡に至ったのである。
参考
弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(1989)
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