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やっぱり良く分からない中国 – 橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』

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橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』(2013)

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文明的な自然状態——中国 – 混沌の中の秩序

 2013年刊行。著名な社会学者3人による鼎談書。中国社会の歴史的・構造的な特質を、比較社会学的な視点から多角的に論じている。

 前半では、マックス・ヴェーバーの理論的枠組みに基づき、ヨーロッパ型の近代国民国家と中国社会との違いが掘り下げられている。社会学の基本的な理論枠組みは、西欧の近代国家をモデルに構築されており、その中では「国民」という一体感を前提として国家が理解されている。つまり、国家とは、国民の集合体であり、共通の規範や価値観によって統合された存在とされる。

 しかし、中国にこの枠組みをそのまま当てはめると、多くの誤解が生じる。中国という国家は、歴史的にも民族的にも非常に多様であり、その規模の大きさも相まって、「中国人」というカテゴリーを一つの「国民」として一括りにするには無理がある。したがって、本書ではまず「そもそも中国とは何か」という根源的な問いから再考しようと試みている。

 この問いに対して、日常生活における中国人の振る舞いから出発し、興味深い考察が展開される。たとえば、中国社会では、個人の自己主張が強く、公共のルールや規範に対する意識が薄いように見えるため、外部の観察者には無秩序に映ることがある。しかし、実際には、そうした混沌のなかでも、人々はギリギリのところで衝突を回避し、一定の秩序を維持している。このように混沌とした状況下でも社会秩序が成立している背景について、橋爪氏は次のように説明する。——この日常の秩序は、ゲーム理論における均衡状態を、人々が再帰的に(互いに意識し合いながら)保つことで成り立っているという。この経験的事実を歴史的な蓄積から学んでいるのが中国社会なのだという。

 このように中国における秩序形成は、制度によって強制されるのではなく、長い歴史の中で社会が経験的に学び取ってきた集合的知によって支えられている。橋爪氏はこの状況を、ホッブス的な自然状態でありながら、同時に「文明的」であると形容している。これは一見矛盾した表現に思えるが、中国社会の実態を的確に捉えた秀逸な言い回しといえる。

 さらに、中国の統治構造や社会制度についても詳しく解説されている。たとえば、皇帝の正統性を支える血統主義、儒教による徳治と律令制度、信賞必罰を重視する法家思想、血縁を基盤とする宗族組織と、互助的ネットワークである幇(パン)、さらには強い序列意識など、いずれも中国の政治社会を理解するうえで欠かせない要素である。

 中国では「政治万能主義」とも呼べる考え方が根強く残っている。それは、有能かつ徳を備えた統治者さえいれば、すべての問題は解決できるという発想である。この思想は、皇帝を「天命を受けた存在」と見なす古代以来の政治文化と通じており、現代中国にもその残滓が色濃く残っている。

 このような背景から、中国では軍人が政権を担うことが忌避され、文官(官僚)が政治の中枢を担ってきた。さらに、能力主義的な人事(抜擢)が基本であるため、常に激しい競争が存在し、党内の権力闘争も絶えない。このような現象も、中国固有の政治文化や価値観を前提にすれば、より深く理解することができる。

中国との歴史問題

 後半では、日中の近現代史をめぐるいわゆる「歴史問題」が主なテーマとなっている。

 橋爪氏は、中国人の視点に寄り添う立場から歴史を論じており、その姿勢にやや一方的な印象を受ける読者もいるかもしれない。ただし、「中国と日本の立場を入れ替えて考える」という思考実験の重要性を強調している点は非常に示唆に富んでいる。相手がどのような経緯や感情のもとに日本に対して不信を抱いているのかを理解しようとする姿勢は、相互理解の出発点として欠かせないものである。

 一方で、橋爪氏の主張には一定の違和感もある。氏は、中国各地で起こった戦争犯罪は個別に証明するのが難しいため、それらの象徴として「南京大虐殺の30万人」という数字が重要だとし、それを否定すべきではないという立場を取る。だが、このように戦争責任の象徴化が進み、結果として事実の範囲を超えて問題が拡大していったことが、現在の歴史認識の対立を生んでいるともいえる。犯罪の責任は本来、証拠と法的根拠に基づいて問われるべきであり、その原則を踏まえず象徴的な言説で議論が行われることには慎重であるべきだろう。

 大澤氏は、日中戦争が当時の国際関係の中でも極めて特異な戦争であった点を指摘する。日本の当初の仮想敵はソ連であり、満洲国建国もまた、中国との関係を友好的中立に保つ意図があった。ところが、盧溝橋事件のような偶発的な衝突から全面戦争へと発展し、結果的に日本は自らの意図とは異なる形で泥沼の戦争に巻き込まれていく。戦争の開始にあたり、日本自身が「侵略」なのか「解放」なのかという明確な意志を持っていたわけではなかった。この曖昧さこそが、今日においても「何に対して、どう謝るべきか」を不明瞭にしてしまっている要因だという。

 これに対して宮台氏は、東京裁判の枠組みをあえて「戦略的に受け入れるべきだ」と説く。東京裁判は、A級戦犯に限定して責任を問うことで、天皇や国民の責任を回避し、戦後の国家再建を可能にした一種の制度的装置だったという理解である。1972年の日中国交正常化の際にも、両国は東京裁判の結果を前提に「過去を持ち出さない」という了解を交わした。この合意に立ち戻り、未来志向の信頼関係を築く方が日本にとって有益だという。

 ただし、この発想はあくまで「両国が共に過去を蒸し返さない」ことを前提としている。仮に中国側が、その戦略を変更し、歴史問題を国内政治に活用する方が得策だと判断するようになれば、東京裁判的な和解枠組みは機能しなくなる。

 たしかに1980年代までは、この東京裁判的合意が一定の意味を持っていた。1990年代前半までは、歴史問題が両国関係を決定的に悪化させるような局面は比較的少なかった。しかし、中国の経済成長とともに国民の意見表明が力を持ち始め、共産党は国内統治の正当性を補強する手段として反日教育を利用し始めている。
 中国がナショナリズムの台頭を背景に、東京裁判の枠組みを否定した場合、これをどう受け止め、対中戦略をどのように再構築するかは、日本側にとって難しい課題である。

 日中間の歴史認識の対立には、戦争責任に対する日本側のあいまいな態度や真摯さに欠ける言動が原因の一つであることは間違いないが、同時に、中国側にも過去の被害を政治的に再利用する側面がある。これは、まさに政治万能主義的な社会のあり方とも言えるかもしれない。

 そのような状況の中で、鼎談の中で三者とも、中国における反日教育やナショナリズムの高まりについて全く触れていないことには、違和感を覚える読者もいるだろう。過去の清算とは、加害者側が謝罪し、被害者側がそれを受け入れるという、双方の成熟した合意によって成り立つものである。どちらか一方だけに責任を押しつけるような考え方では、真の和解にはつながらない。

「日本人は本当に過去を清算できるのか?」

 宮台氏は、現在のネット右翼や一部保守派の歴史観について、先祖から現在に至るまでの「歴史的自己意識」が欠如しており、現在的な欲求の充足しか考えていないと指摘する。この批判は鋭く、的を射ていると感じられる面もある。(ただし、そうした歴史意識への敬意を、宮台氏自身がどれほど持っているかは疑問が残る。)

 いずれにせよ、現在の日本では、過去の加害行為を巡っても、その意図が曖昧なために倫理的な謝罪の言葉が定まらず、また中国からの政治的主張に全面的に応じることもできないという、非常に難しい立場にある。東京裁判の結果を今さら「戦略的に」受け入れることも現実的には難しくなっており、この構造が、中国の一般市民からの信頼獲得を困難にしている。

 日本は今、過去から現在に至るまでの「智の継承」に失敗しつつある。過去の出来事を断片的に切り取るのではなく、そこに連なる歴史的自己像を持つことが、国としても個人としても重要だろう。先祖の行為には、誇るべき犠牲や尽力だけでなく、他者を傷つけた過ちも含まれている。それらを総体として捉え、東アジア諸国と共有できる価値観を見出すことが、未来志向の外交にとっても、日本人自身の成熟にとっても、鍵となるに違いない。

やっぱりよくわからない中国

 総じて本書は、多様な論点を多角的に取り上げており、示唆に富む議論が数多く展開されている。

 読み終えて感じるのは、「やはり中国という存在は一筋縄では理解できない」という率直な印象である。鼎談の中でも、議論は多岐にわたるものの、結論的な部分ではあえて曖昧にされている場面も多く、それが中国社会の複雑さや奥深さを物語っているとも言える。

 歴史問題についてさまざまな立場があることは当然であり、本書はその議論の出発点として、大いに読む価値がある一冊である。

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』(2013)

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