【北朝鮮非核化問題】惨敗の歴史 – 2003年六カ国協議

六カ国協議開催

 2002年10月、北朝鮮はウランによる核開発が発覚すると、翌2003年1月には、国際原子力機関(IAEA)から脱退。1994年に成立した米朝枠組み合意を破棄した。

 IAEAを脱退したことで、北朝鮮は、核開発続行を宣言。IAEAの監視によって停止させられていたプルトニウムの生産を再開、秘密裏に行っていたウラン濃縮も公然と行い始めた。

 IAEAは、北朝鮮の核開発問題を国連の安保理に付託。アメリカのブッシュ政権は、中国、ロシアに働きかけ、周辺関連国による多国間協議の開催を提案。米、中、露、日、韓と北朝鮮による六カ国協議(六者協議)が行われることになった。

北朝鮮の意図と戦略

 北朝鮮は、なぜ1994年の米朝枠組み合意を破棄してまで、核開発再開を宣言したのだろうか。

 米朝枠組み合意に従っていれば、北朝鮮は、重油の供与や軽水炉の開発など、日米韓からの経済援助を得ることができたはずだ。この合意は、北朝鮮の経済や産業の発展に寄与するはずだった。

 だが、問題は、北朝鮮にとっての最大の政治目標が金一族による独裁体制の維持にあって、国家の発展にはないという点だった。

 それは、北朝鮮の外交戦略を見ていると非常にはっきりする。
 北朝鮮は体制維持のために、国際条約、国家間合意をすべて外交交渉の道具に使うという態度を取ってきた。
 北朝鮮政治にとって国際条約や国家間合意を締結すること自体には何の意味もない。初めから条約や合意を順守する気はなく、体制維持のための道具としていかに利用できるかだけが、最大の関心事であり目的となっている。「約束」という概念がないと言われるゆえんだ。

 2001年9月のアメリカ同時多発テロを受けて、アメリカは積極的な軍事活動を展開。
 2001年10月には、アフガニスタンに侵攻しタリバン政権を転覆させた。
 アメリカがひとたび決断すれば、体制転覆など一瞬にして行われてしまうという現実を北朝鮮は目の当たりにした。

 体制維持は、北朝鮮政治の本質だ。
 そのため、北朝鮮が核開発を放棄するということは絶対にない。北朝鮮にとって、核保有は体制存続のための絶対的条件となっているからだ。
 北朝鮮は建国当初から核開発に関心を示してきた。朝鮮戦争後は、ソ連の下で核開発に着手。1985年、IAEA加盟後も、一貫して核開発を進めてきた。
 その間に北朝鮮との間で締結された国際条約や国家間合意はことごとく破られてきた。

 そこで北朝鮮は、国家間合意をまたしても、体制存続のための交渉材料として利用する手段に出た。
 北朝鮮が合意を継続、遵守する見返りとして、経済支援や体制存続の保障を取り付けようといういつもの北朝鮮外交だ。

 北朝鮮はあえて、1994年の米朝枠組み合意を破棄し、核開発宣言をすることで、アメリカを米朝二国間の交渉の場に引き出し、核放棄を引き換えに、北朝鮮の体制保障を取り付ける意図があったのだろう。

 いわゆる北朝鮮の瀬戸際外交だ。完全に敵対する直前まで自らの立場を追い込み、交渉決裂の一歩手前で、相手からの譲歩を引き出す。
 2003年の六カ国協議も、この北朝鮮の手口にまんまと乗せられていくことになる。

足元を見られるアメリカ

 2003年8月、第1回六カ国協議が開催された。
 しかし、この時点ですでにアメリカのブッシュ政権は、北朝鮮に対して強硬な姿勢を示すことができず、態度を軟化させ始めていた。北朝鮮に侵攻する意図も体制転覆を狙う意図もないこと北朝鮮に伝え、合意締結を急いだが、結局は何もまとまらずに終わった。

 アメリカが強固な態度に出れなかったのは、アフガニスタン情勢が悪化していたからだ。またアメリカはイラク戦争の準備にも取り掛かっていた。北朝鮮に手間も時間も割く余裕はなかった。
 北朝鮮は、アメリカが強硬姿勢に出れない状況を確認すると、アメリカの足元を見るような行動に出始める。

 六カ国協議は、2007年までの間に計6回行われている。しかし、その間アメリカの対外政策は、そのほとんどが中東に向けられていた。アメリカの本格介入がないと読んだ北朝鮮は、六カ国協議の合意を結んでは反故にし、そのたびに外交交渉の道具にしては見返りを要求し続けた。

 北朝鮮はアメリカが本格的な軍事介入を行いないことを十分理解していた。中東との両面作戦そのものに無理があるし、もし仮に北朝鮮にアメリカ軍が侵攻した場合、中国とロシアがアメリカの進出を警戒して、極東アジアの軍事均衡が崩壊することは火を見るより明らかだ。また戦争となった場合、韓国や日本が戦火の被害を受けることは間違いなく、その際のアメリカ経済、ひいては世界経済への影響が計り知れない。
 アメリカは絶対に軍事介入しない。そう確信した北朝鮮は、六カ国協議を蔑ろにし、常にアメリカの足元を見た行動をとり続けた。
 その結果として、当然ながら、六カ国協議は、そのすべてにおいて失敗し、意義ある結果を導くことはできなかった。

六カ国協議の経緯

 2003年に続き、2004年、第2回、第3回と六カ国協議が開催されたが、進展は何もなく何の合意も得られずに終わった。

 2005年、北朝鮮は、核の保有を宣言。
 これを受けて開催された第4回六カ国協議で、北朝鮮の核兵器廃棄を合意させた。北朝鮮は核開発の放棄を約束。

 この第4回六カ国協議と並行して、アメリカは、マカオにあった北朝鮮関連の口座を凍結。2500万ドル(約30億円)の預金を封鎖した。
 北朝鮮は、偽ドルの製造と覚醒剤の販売で外貨を稼いでいて、その資金がマカオの口座を通じて北朝鮮に流れていた。これに対するアメリカの経済制裁だった。

 北朝鮮にとっては、この金融制裁は、非常に重大な打撃になった。
 鎖国状態で国内産業が何もない北朝鮮にとって唯一の外貨獲得機会が奪われただけでなく、金正日の独裁体制を揺るがしかねないものだったからだ。金正日が北朝鮮で独裁体制を維持できるのは、こうした国外での資金によって、労働党幹部を買収しているからだ。この資金の凍結は、国内体制の基盤を揺るがしかねない事態につながる。

 そこで、北朝鮮は、翌年の2006年、長距離弾道ミサイルを発射。さらに初の核実験を行った。またお得意の瀬戸際外交の展開だった。
 2006年10月、国連安保理は、北朝鮮への制裁決議を全会一致で採択。北朝鮮に六カ国協議への復帰を求めた。

 そして、2007年2月に開かれた第5回六カ国協議。ここでの合意内容は、北朝鮮の瀬戸際外交の勝利としか言いようのないものだ。

 北朝鮮が受け入れるべきものは、寧辺の核関連施設の閉鎖とIAEAの査察の受け入れのみ。
 これに対して各国は、北朝鮮に100万トンの重油を供与することになった。さらには、北朝鮮との国交正常化のための作業部会の設置も決まった。

 この合意が欠陥だらけであることは明らかだ。
 IAEAの監査の対象は、プルトニウムの精製に関してのみ。高濃縮ウランの精製は監査の対象となっていない。北朝鮮にしてみれば、プルトニウム型の原爆からウラン型の原爆に開発対象を切り換えればよいだけだった。

 アメリカの妥協はさらに続く。

 第6回六カ国協議。2007年3月に開催された。
 ここでアメリカ財務省は、凍結しているマカオの北朝鮮口座にある資金を北朝鮮に返還することで合意。

 しかし、北朝鮮はここでもゴネた。

 凍結されている資金の返還が確認できていないとの理由で、六カ国協議への参加を拒否。核関連施設の閉鎖も見送った。
 この六カ国協議は、実質的協議が行われないまま終了となった。

 2007年の6月、ロシアが仲介となって、凍結資金の返還が実現。北朝鮮は、ようやく、第5回六カ国協議の合意に基づき、寧辺の核関連施設の閉鎖を開始した。そして、その見返りとして、100万トンの重油の供与を受けることになった。

 これ以降、現在(2020年1月)まで、六カ国協議は実現していない。北朝鮮が大陸弾道ミサイルと核兵器の開発を公然と行い始めたからだ。

 結局、六カ国協議の合意は、何ら意味をなさなかった。北朝鮮は、見返りを受けては、合意を破棄するという態度を繰り返した。
 そして、合意を破棄した末に、核開発の放棄を交渉材料にして、また見返りを要求した。

 まったくバカげた話だ。
 日米韓をはじめ西側諸国は、バカげた交渉を何度も何度も繰り返している。

 北朝鮮は、自らの地政学的優位を最大限に生かしているといえる。北朝鮮の背後には、覇権主義的な軍事大国であるロシアと中国が控えている。そして、その前面には日本と韓国という経済的主要国家が立たされている。北朝鮮は、その緩衝地として、アメリカが軍事介入できないことをよく理解している。

 結局、北朝鮮の方が一枚上手なのだ。北朝鮮の非核化はことごとく失敗してきた。北朝鮮の核開発問題は、北朝鮮の非核化を目指す日米の惨敗の歴史だ。

 北朝鮮の非核化は、東アジアの地政学的状況に変化がない限りは、決して実現しないだろう。六カ国協議後も北朝鮮の瀬戸際外交に各国は振り回されていくことになる。

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