アベノミクスは左派政策? – 松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』

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松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』(2016)

 2016年刊行。

 左っかわの人による左っかわへの批判。
 日本の野党はすでに政党としての体を成していない。方向性を見失い、対案を何も出せないまま、ただ政権与党の批判だけを繰り返している。日本の左派勢力は、本来あるべき姿を完全に見失っている―――本書からは、著者のそうした憂慮がよく伝わってくる。
 そうした状況に対して、著者は本来、左派政党が掲げるべき政策が何かを説いている。それこそがインフレ目標だという。

 あれ?インフレ目標って、アベノミクスでやってるやつじゃん!左翼はみんなアベノミクスに反対なんじゃないの?って思った人は、アベノミクスって何なのかもう一度よく考え直してみてほしい。
 本来のインフレ目標はアベノミクスとは異なるものだ。著者はこの両者の違いを指摘している。そして、インフレ目標が、本来、社会民主派の政策であることを明確に説明している。

社会民主派によるインフレ目標

 ヨーロッパの左派政党は、そのほとんどが、金融緩和と政府支出の増大を基本政策として掲げている。それはヨーロッパの社会民主主義が、今現在、働いている労働者の生活を安定化させることを政党の理念として掲げているからだ。雇用創出と賃金の安定的な増加が一般労働者にとってもっとも大事なことだと考えれば、金融緩和と政府支出の増大は当然の政策目標になる。

 現在では、ヨーロッパ各国の多くの社会民主系の政党が、更なる金融緩和を求めて、中央銀行の独立性を制限しようとしている。中央銀行が直接量的緩和を行って政府の財政をまかなうことは、リスボン条約で禁止されているが、これを改正し、政府管理下で中央銀行を民主化させようというのだ。
 ヨーロッパ中央銀行が、各国に財政均衡を求めて緊縮政策を強いるのは誤りであり、中央銀行は、雇用の創出のために積極的に各国の国債買取などを行って、財政支援を行うべきだというのが、ヨーロッパ左派政党の共通政策になっている。

 当然、インフレ目標は、左派政党の掲げる基本政策になる。中央銀行による金融緩和によって新たに生まれた財源は、雇用の安定化と社会福祉に当てる。

 一方、保守政党は、一般労働者よりも、資本家や資産家の立場をより代表している。そのため資産の目減りを意味するインフレには極めて否定的な立場を取る。
 均衡財政を目指し、政府の市場への介入をなくして、企業の競争力をつけることを志向する。結果として、緊縮財政になっていく。

 どちらの立場を支持するかは置いといても、非常に分かりやすい対立軸だ。

ヨーロッパと日本との違い

 このヨーロッパの政党が掲げる政策目標や理念を踏まえたうえで、改めて日本の政党政治を見ると、日本の政党がいかに混乱しているかがよくわかる。
 アベノミクスという名でインフレ目標を掲げたのは、安倍政権であり、自民党だ。

 安倍政権の掲げるアベノミクスでは、金融緩和によって新たに生まれた財源は、政府の進めるせいちょー戦略に回され、社会福祉にはほとんど充てられていない。それは、自民党が国民の生活よりも財界の意向を反映しているからだ。
 金融緩和によって生まれた資金は、主にGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)を通じて株式市場に流れている。そして、政府支出は、相変わらず原発や土建屋など、経済効率性のない利権産業へと流れている。

 これでは、誰のための金融緩和なのか全くわからない。ヨーロッパの社会民主派の政党が掲げている金融緩和が、その資金を社会福祉に当てると提言していることを考えれば、アベノミクスがいかに歪んだ政策であるかが分かる。
 ヨーロッパの社会民主派政党が社会福祉の充実を掲げるのは、それが単に左派政党だからという理由だけではない。社会福祉が充実し、国民の生活が保障されてこそ、国民は安心して、消費にお金を回すことができる。そこで初めて資金の流動性の罠から抜け出して、デフレ脱却が可能になると考えるからだ。

 だが、アベノミクスで生まれた資金はすべて株式市場と政府と癒着した財界へと流れている。株式市場に流れた資金は、海外の資本家やヘッジファンドなどの金融機関が利益を得ただけだ。財界へと流れた資金は、大企業の内部留保になっただけで、労働者の賃金上昇にほとんど寄与していない。むしろ、大企業は、非正規雇用を増やして賃金の圧縮を続けている。

 多くの国民の間には、生活が楽になったという実感はほとんどないだろう。大企業のみが利益を上げていて、むしろ格差は拡大しているのだ。これでは、国民の消費は冷え込んだまま、デフレマインドから脱却できるわけがない。

 現に日銀は金融政策として2%のインフレ目標を掲げているが、いまだに実現できていない。日銀は16年4月の金融政策決定会合で、2%の目標を2017年へと先送りすることを決定した。アベノミクスによるデフレ脱却がいかに遠いかを如実に示している。
 アベノミクスを実施してからすでに3年が過ぎようとしている。いくら金融緩和を行っても国民の生活を保障しなければ、国民のデフレマインドは全く改善せず、消費は回復しない。金融政策だけでは、デフレ脱却がいかに困難であるか、アベノミクスのおかげでかえって、はっきりしたといえる。

流動性の罠

 デフレから脱却するためには、まず流動性の罠から抜け出さなくてはならない。流動性とはいつでも資産として利用できるという意味で、人間は一般的に流動性の最も高いものを資産として保持することを好む。これを流動性選好という。
 流動性の最も高いものは、もちろん、「お金(現金)」だ。そのため、お金は資産として保持されやすい。ここに貨幣のフェテシズムが生まれる。そうなるとお金は、市場で使われることよりも貯めることそのものに、その価値を見出されてしまう。

 (新)古典派経済学では、デフレ経済に陥っても、物価が下がれば、いずれ消費が回復して、物価は均衡すると考えた。だが、90年代以降の日本のデフレ経済下で起こったこととは、物価が下がっても消費は回復せず、賃金が低下したにもかかわらず、失業率は高止まりしたまま、という現実だった。
 それは、日本が流動性の罠に陥っていて、資金があってもそれを溜め込んだまま、消費へと回らなかったからだ。
 人々が将来への生活に不安を抱えていて、なおかつ、今後もデフレが続くと予想している場合、人々の消費行動は抑えられて、貯蓄を増やすという傾向が顕著になる。それは、企業においても同じで、デフレ下では、設備投資を控えて将来に備えておく内部留保を選択するようになる。これを流動性の罠という。

 流動性の罠が起こるのは、デフレ経済下では、資金は貯蓄しておけば、ただそれだけで実質的な購買力が上がっていくからだ。今後、物価が下がっていくと人々が予想した場合、消費活動は抑えられていく。人々がデフレを予想した結果、デフレはさらに進行する。こうして「予言の自己成就」が起こる。

 これでは資金がいくらあっても市場に流れない。この流動性の罠から抜け出すためには、人々が今後、物価が上昇していくと予想するような状況が生まれなくてはならない。
 インフレが進み、資金を使わないで溜め込んでおけば、それだけで資産が目減りしていくと人々が予想するようになったとき、はじめて消費に資金が回るようになる。
 そして、これが最も重要だが、国民が安心して消費活動を行えるようにするためには、国民が将来への不安から解消されている必要がある。いくらインフレを予想していたとしても、将来への不安がある内は、決して国民の消費活動は回復しない。特に日本人はそうした貯蓄傾向が強い国民だ。
 デフレ脱却のためには、インフレ目標と社会福祉の充実という政策の組み合わせが最も重要だ。この二つが合わさってはじめて、国民はインフレ予想に基づいて消費活動を行うことができる。ここではじめて、流動性の罠を脱して、デフレを脱却することが可能になるのだ。

 インフレ目標と社会福祉の充実―――これが、本書において著者が最も主張していることだ。
 本来、インフレ目標と金融緩和は、国民生活の安定を政党理念として掲げる社会民主派の政党が主張している政策だ。

 それが奇妙なことに、日本ではインフレ目標を自民党政権が掲げている。そして、左派勢力は、日銀の金融緩和をこぞって批判している。さらにおかしなことには、安倍政権は日銀の金融緩和によって得た資金を財界と大企業と資本家と官僚のために使っている。

 だが、ヨーロッパの社民政党が提言しているインフレ目標では、金融緩和によって得た資金は、社会保障と格差是正に使われるべきで、企業の成長戦略や優遇政策に使われるのは間違いだとしている。特に保守派が唱えるトリクルダウンなどという珍説は完全に否定している。規制緩和にも増税にも反対だ。
 しかし、アベノミクスでは、社会民主的な金融緩和と保守主義的な新自由主義が奇妙にねじれて接合されている。金融緩和を進める一方、デフレ圧力になる消費税の増税を行っている。また企業を優遇する成長戦略を掲げ、規制緩和を進めて、法人税減税を行う一方で、社会保障費の負担を増やし、支出を削減する。つまり、アベノミクスでは、企業には金融緩和という恩恵を、国民には増税という負担を与えていることになるのだ。

 これでは単に大企業と政府に関連する既得権益層のみが利益を得るだけで、格差を助長させるだけだ。国民の生活は蔑ろにされたままだ。
 そのため金融緩和を実施して3年以上が過ぎているのに、いまだに、たった2%の物価上昇も実現できずにいる。消費が回復せず、物価が上昇しないのは、多くの国民が自分の生活に不安を抱えている証左だろう。

なぜ日本の左翼は、凋落したのか

 野党は、安倍政権のこのような歪んだインフレ目標の前で、何をなすべきだろうか。左派政党は、国民の生活に軸足を置くことをまず再確認し、国民が抱える生活への不安を解消していかなければならないはずだ。
 そのためにこそ、左派政党は、インフレ目標を政策として明確に掲げて、それが実現するまで、金融緩和を続ける必要があるのだ。そして、その資金は社会福祉に使わなくてはならない。
 しかし、それが全くできていないのが、今の日本の野党なのだ。

 なぜ日本の左翼は、ここまで凋落したのか。国民の信頼を全く失って、現実的な政策提言能力を喪失していったのか。
 左翼が勝手に自滅してくれるから、安倍政権は何をやっても一人勝ちである。

 日本のケインズ政策は、左派勢力によってではなく、自民党の田中角栄時代に確立された。しかし、自民党政権による財政支出は、国民生活を支えるための社会福祉に使われるのではなく、自民党の票田を作るための土建企業へと回された。この手法は、自民党政権にとってきわめて重要な意味を持った。それは、政権の永続化を約束するものだったからだ。その後の自民党政権のかなでこの手法は、発展、継承され、官僚が天下りを作るためのさまざまな業界へと拡大されていった。

 こうして政官財の癒着構造を作り上げることで、自民党は長期政権を実現した。その間、政権与党に預かる一切の機会を失った野党は、無責任な立場で、政権批判をすることだけが唯一の政治活動になっていった。
 この無責任な立場は、現実的な課題を考慮しなくてよい分、非現実的なイデオロギーに固執して、空想的な理念の内にいつまでも戯れていられる余地を野党に与えてしまった。その結果、日本の野党は、国民の大半から支持されないイデオロギーを振りかざして、理念に固執するだけの政党に成り下がってしまった。

 日本の左派、民主党も含めて、社民党、共産党は、万年野党で、政権の批判だけしていればよいという態度が染み付いていて、2009年に政権与党になってもその態度を改めることができなかった。
 それは結局、日本の左派政党が、自らの本来の存在意義を見失って、国民、労働者のの生活を保障するという基本的な理念を喪失していたからだろう。
 ヨーロッパ各国の社会党は、社会主義が崩壊すると一斉に社会民主党へと党名を変更していった。それは、社会主義的イデオロギーから脱して、労働者の生活を保障するということを政党理念の中心に据えていったからだ。ヨーロッパの社会民主勢力のように、国民の生活を支えるということを最も基礎的な理念に据えていれば、政策的な方向性は自ずと見えてきていたはずだ。

 だが、日本の左派勢力はどうだったか。「社会主義」や「平和主義」といった空想的な理念に固執して、ただ政権を批判し、現実的な課題に向き合ってこなかった。そのため、軸足が不明瞭で、一貫性のない場当たり的な政策を繰り返すことになる。そして、選挙前になれば必ずといってよいほど、離合集散を繰り返し、看板の架け替えに躍起になるのだ。こうした態度は、まさに自らの存在理念の欠如を示したものに他ならないだろう。

 左派政党が自らの存在意義を見失って、空想的な理念に固執している限り、国民の信頼を得ることは絶対に不可能だ。そして、野党がこの体たらくでは、自民党政権はいつまでも安泰だろう。
 ただ政権与党の批判しているだけでは、自らが何のために存在しているのかその意義をますます見失ってしまう。左派政党は、国民の生活を支えるという基本的な理念に立ち返ることこそが、今、最も必要だろう。

 そのためには、インフレ目標を設定し、財政支出を社会福祉に使うことを政策目標に掲げることが第一歩だ。ただアベノミクスを批判すればよいというものではない。アベノミクスの何が問題で、何を変更すべきなのかを今一度問い直さなければならない。

 2016年7月の参院選を見据えて、野党はまたぞろ、離合集散と看板の掛け代えをはじめた。今度は民進党だそうな。全く持って愚かな連中だ。自分の地位に執着するだけで、国民の生活を蔑ろにしているのは、むしろ野党の方ではないか。

 野党は、著者の提言に対して真剣に耳を傾けるべきだろう。でなければ、国民からの信任を受けることはおろか、際限のない自己崩壊からさえ抜け出すことは不可能だろう。まともな野党の不在している国の国民は、本当に不幸である。