全ての道はローマに通ず – All roads lead to Rome

(パエストゥム)

全ての道はローマに通ず – omnes viae Romam ducunt

 3世紀末のローマ皇帝ディオクレティアヌス帝時代の資料に、ローマの公道の総距離数を示す資料が残っている。

 それによると、幹線となる国営の公道は、総数372道、延べキロ数約85000㎞になる。
 国土交通省の資料によると、日本の高速道路の総距離数は、2016年現在、9165㎞だそうだ。この数字を比べると、ローマ帝国が如何に広大な地域を支配していたかが良く分かる。
 そして、この広大な交通網は、「全ての道はローマに通ず」との言葉通り、帝国内に隈なく張り巡らされていた。

 ローマ街道の中でも最古のものの一つと見られているラティーナ街道は、ローマから南東に200kmほど延びている。その後、同じくローマから南東へ延びる街道として、紀元前312年にアッピア街道の建設が始まる。両街道とも、当時の軍事的な要請から整備されたものだ。
 その約百年後の紀元前220年には、ローマから北へ延びるフラミニア街道の建設が始まる。この街道は、アドリア海のリミニまで続き、海岸地方の征圧に重要な役割を果たした。

 このように、ローマ街道の建設は、第一義的には軍事的な要請によるものだった。したがって、ローマ街道の発展は、ローマによる周辺地域の制圧と支配領域の拡大と密接に関わっていた。
 しかし、ローマが都市国家として発展していくと、道路建設とその整備は、国家的な道路行政へと発展していく。

 街道には、約1000歩を1マイルとして、マイルストーンが置かれた。公道の建設と補修には、各地のケンソルという戸口調査官が実務を担った。紀元前220年にはクーラートーレース・ウィアールムという道路専門の役人が作られ、1世紀半頃までには、各街道毎に道路世話役が置かれようになる。
 帝政期には、道路建設は属州まで広げられ、各地の属州総督が道路行政の責任を負った。こうして、帝国全土へと街道は張り巡らされていった。

・最古の街道とも言われるラティーナ街道

(出典: ラティーナ街道 – Wikipedia

 全ての道はローマに通ず―――この言葉が、人々の間に広く膾炙されるようになったのは、17世紀のフランス人詩人ラ・フォンティーヌの著作『寓話』の中で、用いられたのがきっかけらしい。
 この著作は、ローマ帝政の道路行政を称える言葉として存在していた「omnes viae Romam ducunt」という格言を、「全ての物事は一つの真理にたどり着く」という現代的な意味で用いた最初の例のようだ。

 この巨大な交通網は、その後、ヨーロッパ文化圏を作るのに重要な役割を果たした。ギリシア文化、キリスト教、ルネサンス、宗教改革、近代科学、全てこの道を通じて、ヨーロッパ中へと拡散していった。

参考

弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(1989)