(画像:パエストゥム)
全ての道はローマに通ず ― Omnes viae Romam ducunt
「すべての道はローマに通ず」(Omnes viae Romam ducunt)——この有名な言葉は、単なる比喩ではなく、古代ローマ帝国が築いた現実の壮大な道路網を象徴するものである。
3世紀末、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年~305年)の治世に作成された資料には、当時のローマ帝国における公道の総距離に関する記録が残されている。
それによると、帝国の主要幹線となる国営の街道は372路線にのぼり、総延長は約85,000kmに達していた。
参考までに、日本の国土交通省によると、2016年時点の日本全国の高速道路の総延長は約9,165kmである。両者を比較すれば、古代ローマがいかに広大な領域を統合・支配していたかが、数値的にも実感できるだろう。
ローマの街道網は、まさに帝国の隅々にまで張り巡らされ、その中心は常に「ローマ」だった。この現実が、「全ての道はローマに通ず」という言葉を真実にしていたのである。
ローマ街道の起源と発展
ローマ街道の建設は、もともと軍事的な必要性に基づくものであった。ローマは周辺地域を制圧・支配するために、兵士や補給物資を迅速に移動させる手段として、整備された道路を必要とした。
最古級の街道として知られるラティーナ街道(Via Latina)は、ローマから南東へ約200km延び、ラティウム地方へと通じていた。
さらに有名なのが、紀元前312年に建設が始まったアッピア街道(Via Appia)である。これはローマから南東へ延び、最終的にはブリンディシウム(現在のブリンディジ)に至る、ローマ最古の舗装街道の一つとして知られる。
紀元前220年には、ローマから北へ向かって伸びるフラミニア街道(Via Flaminia)の建設が始まった。この街道はアドリア海沿岸の都市リミニ(Rimini)まで通じており、北方や東方の征服活動において極めて重要な役割を果たした。
このように、街道網の整備は軍事的目的を第一義としながらも、やがて帝国の発展とともに国家的インフラとしての役割を担うようになっていく。
国家道路行政の制度化
ローマ街道の発展は、単なる土木技術の成果にとどまらず、制度的にも高度に組織化されていた。
街道には、約1,000歩(ローマ歩兵の歩幅に基づく)を1マイル(約1.48km)とするローマ・マイルごとに「マイルストーン(里程標)」が設置され、道の距離や起点・建設者などが刻まれていた。
街道の建設と維持管理には、当初はケンソル(Censor)と呼ばれる監察官が関与し、都市や地方の戸籍調査や財政を兼務しながら道路の整備も担当した。
やがて紀元前220年には、街道管理の専門役職としてクーラートーレス・ウィアールム(Curatores Viarum)が設置されるようになり、各主要街道には専属の「道路管理官」が任命される制度が整備されていった。
帝政期に入ると、この制度はさらに属州(帝国支配下の各地域)にも拡大され、属州総督(プロコンスル/プロプレトル)がそれぞれの地域における道路行政の責任を負うようになった。
こうして、ローマ帝国の街道網は、本国から属州の果てまで整然と築かれ、帝国の統一と秩序を支える根幹的なインフラとなったのである。
・最古の街道とも言われるラティーナ街道

(出典: ラティーナ街道 – Wikipedia)
「すべての道はローマに通ず」の真の意味
「すべての道はローマに通ず(Omnes viae Romam ducunt)」——この言葉が広く人々に知られるようになったのは、実は古代ローマ時代ではなく、17世紀のフランス人詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの著作『寓話(Fables)』による影響が大きいとされている。
この表現は、もともとローマ帝国の幹線道路がすべてローマを起点としていたという事実を称えた格言であり、当時の優れた道路行政を象徴する言葉であった。
しかしラ・フォンテーヌは、この言葉を「あらゆる出来事は、最終的に一つの真理や目的に帰着する」という、より抽象的かつ哲学的な意味で用いた。
それがきっかけとなり、この言葉は比喩表現として近代ヨーロッパ社会に浸透し、現在のような普遍的な意味合いを持つようになったのである。
ローマ街道が築いたヨーロッパ文明の基盤
ローマ帝国によって築かれたこの巨大な交通網は、単に軍事的・行政的な機能にとどまらず、その後のヨーロッパ文明形成に決定的な影響を与えることとなった。
街道は、まずギリシア文化を南イタリアからローマ、そして属州へと拡散するルートとなり、ヘレニズム的教養をローマ世界全体に広めた。
続いて、紀元1世紀以降に広がったキリスト教も、ローマ街道を通じて帝国内に伝播し、後のヨーロッパ宗教世界の礎を築くことになる。
さらに中世以降、街道網はルネサンス文化や宗教改革の思想、そして近代科学や哲学の理念の流通経路としても機能し、ヨーロッパ各地の知的覚醒に貢献した。
このように、かつて軍団を動かすために築かれたローマ街道は、やがて人類史における知の道、精神の道へと転化し、ヨーロッパ文化圏の形成と発展に不可欠な基盤となったのである。
参考
弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(1989)
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