PR|記事内に広告が含まれています。

外国人労働者をほんとうに差別しているのは誰か──経済合理性の裏に隠れた差別意識

労働・就職
Articles

外国人労働者の受け入れをめぐって──
 外国人労働者をほんとうに差別しているのは誰か?(全4回)第2回

 第1回 第3回 第4回

広告

経済合理性の裏に隠されたもの

「外国人労働者の受け入れ」をめぐる議論は、賃金や雇用への影響といった労働市場の問題として語られることが多い。
しかし、この問題にはもう一つ、より根本的な論点がある。
それは、私たちが外国人労働者をどのような存在として位置づけているのか、という問いだ。

外国人労働者の受け入れは、しばしば「人手不足を補うため」「雇用のミスマッチを埋めるため」と説明される。政策文書や報道、さらには日常会話においても、この説明は半ば当然の前提として語られている。そこに必ずしも悪意があるわけではない。多くの場合、それは現実を説明するための、もっともらしい言い方として用いられているのだろう。
しかし、視点を少し変えると、この言い方にはどこか奇妙な響きがある。

「人手不足の業種を外国人で補う」という言い方は、いまではごく自然に使われている。
けれども、この言葉を少し言い換えてみると、別の意味が見えてくる。

それはつまり、条件が悪く日本人がやりたがらない仕事は、外国人に担ってもらうということでもある。
さらに考えてみれば、そこには、労働条件を改善して人を集めるよりも、その仕事を外国人に引き受けてもらえばよいという発想が潜んでいる。

もしある仕事が本当に社会に必要なのであれば、本来はそれに見合った賃金や労働条件が整えられるべきだろう。ところが実際には、賃金や条件を改善する代わりに、「安く働いてくれる人」を外から連れてくるという構図が生まれている。

そこでは外国人労働者が、労働市場の一員というよりも、調整弁のような存在として扱われてしまう。

見えにくい差別意識

ここで問題なのは、外国人労働者の存在そのものではない。
むしろ問題なのは、外国人を「日本人がやりたがらない仕事を引き受けてくれる安価な労働力」として位置づけてしまう社会の側の意識である。

考えてみれば、「外国人を受け入れるべきではない」と主張することと、「外国人には低賃金の仕事を担ってもらえばよい」と考えることのどちらがより差別的なのかは、簡単には言い切れない。
前者は排除の論理であり、確かに問題を含んでいる。しかし後者もまた、人を対等な労働者ではなく、便利な労働資源──いわば「もの」──として扱う発想に近い。

しかも後者は、しばしば差別として自覚されにくい。 なぜならそれは、「人手不足を補うため」という合理的な言葉の背後で語られるからだ。

人手不足を解消するために労働力を確保する──その説明自体は一見もっともらしく、経済合理性にかなっているようにも見える。
だが、本来の問題はそこにある。もし社会が「安い労働力」を前提として制度を設計し続ければ、低賃金の仕事はいつまでも低賃金のままで残り続ける。そしてその役割を担う人が、「外国人労働者」として固定されていくことになる。

こうして経済合理性の名のもとに、差別は表立って語られることなく温存されていく。そこには、外国人を対等な労働者としてではなく、「一等下の人々」とみなす「見えにくい差別意識」が潜んでいる。より低い位置に置かれた労働力として扱うことがあたかも当然であるかのように──

したがって、外国人労働者の問題は単なる労働政策の問題ではない。それは、日本社会が労働というものをどのように評価し、どの仕事にどれだけの価値を与えるのかという問題でもある。

外国人労働者を排除することが正しいわけではない。しかし、彼らを「日本人がやりたがらない仕事を安く引き受けてくれる人」として扱う社会もまた、健全ではない。

結局のところ問われているのは、外国人労働者の是非ではなく、労働に対する社会の姿勢そのものなのかもしれない。そしてその問いは、外国人の問題である以前に、日本人自身の問題でもある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました