地方自治の理念に基づく教育行政
教育委員会は、アメリカ指示の下、終戦後の教育行政を民主化するために始まった。
1948年、教育委員会法が施行され、全国の自治体ごとに教育委員会が設置された。地域参加型で教育行政を担うアメリカの”School Board”を参考にして作られた組織だった。
政治に左右されることなく、自分たちの子供の教育内容は自分たちで決めるという地方自治の理念に基づいたもので、地方議会や行政からは、独立した運営が求められた。
この独立性を担保するために、教育委員会法では、委員のうち1名は議会から議員が選出されるが、その他は選挙による公選によって選ばれた。(都道府県に7名の委員、その他の地方自治体に5名の委員が置かれていた。)
教育委員は、公選制の下、地域住民の選挙によって選ばれていたため、権限も強く、実質的な教育行政の担い手となった。特に、教育関連予算の編成権を持っていたことは重要だ。
教育委員会は、教育関連予算案を作成し、地方自治体の首長に提出することができた。また教育委員会で開かれる議会は、原則公開が義務付けられていて、透明性も高かった。
しかし、このような戦後の民主化の流れは、冷戦下に入り、左右のイデオロギー対立が激化すると、保守反動の流れの中で、押しつぶされてしまった。
形骸化する教育委員会
1956年、自民党政権は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を制定。
教育委員公選制を廃止し、教育委員をすべて地方自治体の首長による任命制へと改めた。議会の原則公開も廃止され、透明性も失われた。
教育行政における政治的中立性が脅かされるというのが法改正の理由だった。
おそらく、この法改正の目的は、左派系の委員(よーするに日●組)の排斥にあったのだろう。
特に1950年代は、全国で均質な教育の普及を目指す文部省と教育現場の民主化を求める●教組の対立が激しかった時代だ。左右のイデオロギー対立を反映して、君が代、日の丸、戦争犯罪、非武装中立といった政治的イシューが教育現場でそのまま激しく議論されていた。
当時の時代背景を考えれば、この法改正はある程度やむを得なかったものかもしれない。
しかし、その結果として、教育委員会の独立性は失われ、単に文部省と地方自治体の指示を受けてそれを実施するだけという何の機能も果たさない無意味な組織に成り下がっていった。
冷戦が終了し、左右のイデオロギー対立が緩和していった以降もこの制度は改められることがなく、教育委員会の形骸化は、より一層深刻に進んでいった。
教育委員会の人事はより保守化し、文部科学省の方針をただ受け入れるだけの無難な人物だけが選ばれていくようになる。当然組織は、事なかれ主義と隠蔽体質の色合いを強めていく。
現在、教育行政の実質的な担い手は、文部科学省と地方自治体であり、教育委員会が行っていることは、所管している小中高といった教育機関の運営に関する事務に過ぎない。
しかも、人事は不透明で会議は非公開だ。地域住民の意見や要望が反映される仕組みは一切ない。
その存在意義すら疑われるような組織が、全国津々浦々1800も存在している。
このような状況を改善しようという試みが全くなかったわけではない。教育委員会の改革としてもっとも有名なものが、中野区による準公選制の導入だ。
中野区の教育委員会準公選制とは、どのようなものだったのだろうか?
つづく。。。
[adcode] 中野区による準公選制の導入 1956年に制定された「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって教育委員会は、住民が選挙で選ぶ公選制から、自治体の首長による任命制へと改められた。 その結果、教育行政の民[…]