石井陽一『「帝国アメリカ」に近すぎた国々 ラテンアメリカと日本』(2009)
新自由主義の実験場となったラテンアメリカ
哀れメキシコよ。アメリカにあまりにも近く、天国からあまりにも遠い。
2009年刊行。
2008年9月のリーマンショック後、アメリカではオバマ政権が発足し、世界中で新自由主義の是非が活発に議論されていた時期である。
新自由主義は、規制緩和と民営化を中心とし、小さな政府を志向する経済政策で、70年代から80年代にかけて、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根内閣時代に主に取り入れられた。その後、社会主義の崩壊に伴って、90年代にヨーロッパ諸国で民営化が積極的に行われる。
新自由主義が取り入れられた背景には、日米英ともに当時の肥大化した財政の見直しと公的債務の削減という意図があった。ヨーロッパ諸国においても、EU加盟条件のマーストリヒト条約で、財政の健全化が条件とされていたため、財政的な理由があった。
だが、実は、このような新自由主義の世界的な隆盛の前に、ラテンアメリカ諸国で先駆けて新自由主義的政策の導入が始まっていた。
70年代頃まで、ラテンアメリカ諸国では、社会主義的体制をとる国が多かったが、冷戦時代にアメリカは、防共を名目に積極的な政治介入を行った。ラテンアメリカ諸国は、社会主義政策の転換と新自由主義政策の導入が迫られ、新自由主義の実験場となった。経済的にアメリカの圧倒的な影響下に置かれているラテンアメリカ諸国では、避けようのない選択肢だったのかもしれない。
本書は、アメリカの政策に翻弄されるラテンアメリカ諸国の様子を描いている。
チリ
1973年、チリでは社会党のアジェンデ政権が軍部によるクーデターによって崩壊した。アジェンデ政権は、銅を中心とした資源の国有化や小作農への農地分配など、社会主義的な政策を推進していた。しかし、冷戦下のアメリカは徹底した反社会主義外交を展開し、チリに対する禁輸措置などの経済的圧力を加えた。その結果、チリ経済は麻痺状態に陥り、国内ではストライキが頻発した。これらのストにはCIAが資金援助を行っていたとされている。
クーデター後はピノチェット将軍が国家元首となり、軍事政権が発足。ピノチェット政権下では、新自由主義の理論家ミルトン・フリードマンの門下生たちが政策運営に関わり、市場原理主義的な経済改革が進められた。
メキシコ
1910年、メキシコで、ラテンアメリカ初の社会主義革命であるメキシコ革命が勃発し、1917年には革命憲法が制定された。その後、2000年までの83年間にわたり、制度的革命党(PRI)による一党支配が続いた。
1908年に油田が発見され、1938年には石油産業が国有化された。
1976年、ロペス・ポルティージョ政権は石油資源を担保にアメリカなどの外資を導入し、工業化を推進。1979年の第二次オイルショックでは大量のオイルマネーが流入したが、1980年代に入ると原油価格の暴落と米国金利の上昇が重なり、債務返済が困難となり、最終的にデフォルトを宣言した。
1984年に発足したデ・ラ・マドリ政権は、従来の保護主義政策から自由主義的な経済政策へと転換。1989年には、アメリカ財務省とIMFが主導する新自由主義政策を受け入れ、債務の一部免除と引き換えに市場改革を実施した。これは、90年代以降広がる「ワシントン・コンセンサス」の先駆的な事例となった。
ペルー
1990年の大統領選で日系人のアルベルト・フジモリが当選した。前政権のアラン・ガルシアは左派政党出身で、価格統制や補助金乱発により、年率7,000%を超える悪性インフレを招いた。
フジモリはインフレ抑制を最優先とし、緊縮財政、価格の自由化、国営企業の民営化、規制緩和などの政策を実施。1992年からは元CIA職員のウラジミル・モンテシノスを政策顧問に迎え、国会の一時閉鎖と大統領権限による山岳地帯の左翼ゲリラ掃討を行った。
治安の回復に成功したフジモリは、1992年11月に新憲法制定のための国会を招集し、その後再選。日本からのODAも獲得し、1994年までの5年間で970億円の供与を受けた。
ブラジル
1989年の選挙で、コロル・デ・メロが大統領に就任し、軍政から民政へと移行した。コロル政権は預金封鎖などの強硬策でインフレ抑制に取り組んだ。
その後のイタマル・フランコ政権は、1994年に緊縮財政を実施し、新通貨「レアル」を導入。ドルにペッグ(固定)させた為替制度により、インフレの抑制に成功した。
しかし、1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア通貨危機の影響でドルペッグ制は維持できなくなり、変動相場制へ移行。それ以降も規律ある金融政策を継続し、インフレ抑制とともに経済成長を果たし、BRICsの一角として世界経済で注目されるようになった。
新自由主義からの揺り戻し
ラテンアメリカ諸国は、70年代の左翼的政権下で悪性インフレが蔓延し、外資の流入が途絶えたため、工業化に後れを取っていた。輸出産業を農業生産品に特化させていったが、戦後農産品の国際価格は一貫して下落傾向にある。天然資源は、国際価格の変動が激しく、天然資源のみに依存すると、資源価格に国内経済が左右される不安定な状況を招く。
国内産業の育成が必須だが、その前に悪性インフレを終息させて、金融を安定化し外資を誘致する必要があった。そのため、80年代から90年以降は、アメリカと国際金融機関の支援の下、ワシントンコンセンサスを受け入れる形で、市場の自由化を進めていった。
だが、この経済の自由化は、インフレの終息にはある程度の効果を発揮したが、産業の弱い国は、国際競争に曝されるのみで、かえって産業育成に失敗した国々も多かった。そのため、2000年前後を境に、自由化の揺り戻しが起こっている。
代表的な国々は、ベネゼエラ、キューバ、ボリビア、ニカラグアだ。アメリカの主導する米州自由貿易圏(FTAA)に対抗し、保護主義的政策と石油の戦略的輸出を行っている。
1999年に発足したベネゼエラのチャベス政権は、特に反米志向が強い。保護主義的経済、左翼政権、反米ナショナリズムといったグローバリゼーションに対する揺り戻しが、経済発展に取り残された国を中心に起きている。
これからの日米関係を考える上で
ラテンアメリカ諸国では、自由貿易によって産業を発展させた国と、国際競争に取り残された国とで、アメリカ主導の新自由主義に対する姿勢に違いが見られるようになっている。今後、この傾向が進み、地域の経済政策が二極化する可能性もある。
とはいえ、政治的にも経済的にもアメリカの影響力を最も強く受けざるを得ないのは、ラテンアメリカ諸国に共通する現実である。
それは、日本についても当てはまる。日本はアメリカの影響下で、1980年代末から90年代にかけて「年次改革要望書」に沿って規制緩和を進めてきた。現在では、規制緩和と自由化は、経済成長に資するものがあったのか、社会格差の拡大をもたらしただけなのか、議論が起きている。新自由主義に対する世論は、二極化している。
今のラテンアメリカ諸国の状況は、日本がアメリカに対して今後どのような立場を取るべきかを考える上で、重要な示唆を与えてくれる。日米関係を考察する上で非常に有意義な事例だと言えるだろう。
石井陽一『「帝国アメリカ」に近すぎた国々 ラテンアメリカと日本』(2009)
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