読書案内
茂木健一郎『クオリア入門』(2006)
クオリアとは何か?
私たちの心の中のすべての表象は、クオリアという単位からできている。
クオリアとは心の中で感じ取ることのできる質感のことだ。心の中で感じ取っている直接的な経験と言い換えてもいい。
この質感を感じ取っている心の中の経験が、脳内のシナプスの働きの結果として生じていることは間違いない。どのような心の働きも、身体および脳の物理的な働きに依存している。その意味では心の働きも、ニューロンの発火という自然法則に従った物質的現象だ。
しかし、一方で、心の中における経験は、「私」という存在を構成している。そして、この「私」という存在は、その主観の内では、意思を持つものとして能動的に振舞っている。だが、意識の働きが脳の物理的な振る舞いの結果でしかないとしたら、「私」という意識の能動性はどこから生まれているのだろうか。クオリアはこの「私」という意識の問題に密接に関わっている。
脳科学におけるHard Problem
現在のクオリアの研究は、この意識の能動性が何に由来しているのかを問おうとしている。クオリアはそれ自体が能動性を持つものとしてわれわれの前に立ち現れている。
意識の存在が従来の物理的な法則に還元できるのかどうかということは、いまだ決着のつかない大きな問題である。少なくともクオリアの問題は、従来の物理学の枠組みを作り直すことを求めていることだけは確かだ。
脳の働きを物理的な現象として説明する現在の脳科学の説明体系から心の表象をつくりだしているクオリアの説明原理を導く研究はまだ端緒についたばかりだ。脳の物理的な働きとクオリアの振る舞いを結び付けるには、まだ乗り越えられない壁があり、両者を統一的に説明するための原理は見つかっていない。
この両者の間の関連性がどのようなものであり、両者が相互にどのように影響しているのかを問うことは、心脳問題として脳科学上の難題のひとつとされている。これは脳科学でHard Problemと呼ばれている。
本書は、このHard Problemを紹介することから始まり、そして、それがやはりHard Problemでしたと確認することで終わっている。クオリアに関する入門書というよりは、研究が進まない専門家の現状報告、といった感じの本だ。
ニューロンの物理的な振る舞いとクオリアの自律的な振る舞い
脳内のニューロンが発火するパターンとそれによって生じるクオリアの間には、一定の恒常的な関係性がある。それは、ある特定の刺激に対してのみ反応し、発火するニューロン群が存在しているからである。
たとえば、いつもリンゴを見てそれがリンゴだと感じることができるのは、リンゴの刺激に対して、特定の反応を示すニューロン群が存在しているためだ。外部からの特定の刺激に対して、安定した形で心の中の表象が再生産されることによって、人間の認識が信頼に足るものとして成立している。そのため特定の刺激に対するニューロンの安定的な反応は、認識の機構を説明するためにも重要な研究対象となった。
このような特定の刺激に対して発火するニューロン郡の特徴は、反応選択性と呼ばれる。この反応選択性は、現在では脳科学者たちによって数多くの実証的データが取られている。しかし、著者は、この反応選択性に依拠してクオリアを研究することに疑義を呈している。
ある特定の特徴を持った刺激に対するニューロンの反応選択性は、直接、心の中でどのような表象が生じるのかという問題と関係がない。それにもかかわらず反応選択性によってクオリアを捉えることは、心の問題をニューロン発火の随伴現象として扱うことになり、心そのものの属性を問うことを無視することにつながると指摘する。
心の働きをニューロン発火の随伴現象として捉えれば、ニューロンのふるまいを物理的に記述することは可能であるため、自然科学の対象になりえる。しかし、その結果として、心の機能は単にニューロンの働きの結果起こる反応ということにすぎなくなり、心の能動性は失われてしまう。
ここで著者はこのニューロンの発火を、刺激-反応といった因果関係論的図式で捉えることからの転換を図る。「マッハの原理」の類推から、ニューロンのネットワーク相互の関係性を重視することが必要と指摘し、最終的に、反応選択性は、ひとつのドグマに過ぎないとして否定している。
志向性によるクオリアの振る舞いの捉え直し
この反応選択性に対して著者が提案するのが、ポインタ(志向性)の概念である。我々が知覚している情報は、感覚器官から得られた生の情報ではなく、脳内で一端、処理、加工されたものである。
それが端的に現れているのが、両眼視野闘争だと著者は述べる。右目と左目で見る映像は異なったものであるにもかかわらず、われわれは、利き目を中心に両者を統一したもの、つまり右目の映像とも左目の映像とも異なる第三の映像を視覚映像として捉えている。このとき、「見え」の変化を説明するのがポインタという概念である。
ポインタは、質感として知覚されるクオリアに対して、抽象的な感覚として把握されるものと説明される。低次視野(直接網膜に映った情報)から高次視野(脳内において加工された情報)に至る過程で、知覚情報が解釈され意味づけられるには、そこに主体的な働きを想定しなければならない。著者は、このポインタが主体の概念を捉え直す、あるいは心の能動性を評価するための重要な概念になるのではないかと示唆している。
不明瞭な結論
本書はおおよそこのような展開で終了するのだが、著者が従来の考え方の転換を図ろうと意図していることはよくわかる。しかし、クオリアの説明から、ポインタといった概念を提示する段階へいたると、ほとんど実証的な裏付けなしで、概念の解説だけが進んでいく。そして、突如として、「ポインタは志向性の概念と同じだということに気がついた」といって、19世紀の哲学者の議論を持ち出す。
ポインタや志向性が主体性を考える上での重要な概念と指摘しておきながら、それが脳内のどのような機能に依存して行われているのかという科学的な論証はまったくなおざりにされている。結果として、ポインタおよび志向性というものがいったい具体的に脳内のどの機能を指しているのかが一向に不明確になっている。肝心なところで哲学のおさらいのような議論をしていて、いつのまにやら、心脳問題はやっぱりHard Problemでした、テヘペロ♪といって終わっている。
どーにもこの著者には胡散臭さが付きまとう。専門外にさまざまな著作があり、メディアでも多方面の活躍している著者だが、脳科学において証明できているのかどうか分からないことまで、ありとあらゆる話題をぜーんぶ脳の働きに結び付けて、
脳の活性化に役立ちます!アハ♪
。。。と言い切ってしまう態度には疑問を感じる。(何か頭を働かせれば、脳内の血流量は増えるのは当たり前だろう。それを脳の活性化と言ってしまっていいのかいっ!ペッシ∑( ゚Д゚ノ)と素人ながらにも突っ込みたくなる。)
参考
・アハ体験
せめて専門の分野では、まともな実証研究の成果を提示してもらわないと、本職でも胡散臭く見られてしまうのじゃなかろうか(まぁ余計なお世話だろうが)。テレビの出演に超多忙なこの著者に今後、実証的な裏付けの成果を期待するのは、果たして過大な要望だろうか。