「気が置けない」の意味は?
部下「気が置けない?! またメンドクサソーなやつ、押し付けやがってこのクソ上司が!(はい、わかりました。任せてください!)」
「気が置けない」
「気の置けない」
最近はめっきり聞かなくなりましたが、未だにこうした言い回しを古めかしく使うやつがいるもんで。
このやっこさん、上司からの頼みをすっかり履き違えて捉えちまってますナ。
しかし、これを責めるのは酷ってもんです。
「気が置けない」ってぇ、この言葉が、片足、死語につっこんでいますからナ。今どき使う方が誤解を招くってもんです。
もちろん、「気が置けない人」と言った場合、その意味は、「気を遣わなくてもよい人」「気遣いの要らない人」という意味です。
「気を許せない」という表現に引きずられて、まったく逆の意味に捉えている人が多いんでしょう。「気が置けない」が、気が張り詰める、油断できない、といった意味に捉えられて、誤用が広がっているようです。
まぁ知らない人からすれば、だいぶ印象の違う言葉でしょうナ。
正しい意味は。。。
気を遣わない
気遣いの要らない
要するに「気配りや配慮が必要ない」ということで、「気の置けない」仲といったら、「気楽な、打ち解けた」仲ということです。
これで正しい意味が分かりました。次から正しく使いましょう!
。。。って、これで終わりかい?!
それじゃぁ、つまらねぇ。ここで終わっちゃぁ、そこらの有象無象のアフィサイトと変わらねぇ。ゴニョゴニョ…
では、なぜ「気が置けない」「気の置けない」が、「配慮の要らない」「気を遣わない」という意味になるのか。その理由を深堀っていきましょう。
「置かれる」から「置ける」へ – 可能動詞の変化
まず「置けない」という言葉の意味から。これは否定形なので、元の形は、「置ける」です。実を言うとこの「置ける」という言葉がそもそも死語になっているんですナ。これがすべての元凶です。
え?何を言うんだって?「置ける」は今でもフツーに使うじゃねぇか。。。そういった声が聞こえてきそうですな。じゃぁそこのところを細かく見ていきやしょう。
「置ける」
実はこれ、「置く」の可能形ではないんです。
「置く」(五段)という動詞に可能を意味する助動詞「れる・られる」を付けると本来は、「置かれる」となります。
助動詞「れる・られる」は、「受身・尊敬・可能・自発」とさまざまな意味を表します。
しかし、近年は、可能を助動詞「れる・られる」で表現するのではなく、別の言葉で表し、受身・尊敬との違いをはっきりさせるようになっています。
五段活用動詞を下一段化させて、それを可能形として使うんですナ。まぁ現代の知恵です。
具体例をあげましょう。
下一段化による可能形
五段活用動詞 | 受身・尊敬・自発(助動詞「れる」) | 可能(下一段化) |
置く | 置かれる | 置ける |
聞く | 聞かれる | 聞ける |
言う | 言われる | 言える |
。。。と、こんな具合。
これは、いわゆる「ら抜き」言葉と同じような現象ですナ。
上一段・下一段・カ変動詞に、助動詞「られる」を付けて、可能を表す場合、最近ではもっぱら「られる」から「ら」を抜いて表現します。「られる」は、受身・尊敬・自発の意味でのみ使われ、可能を表す場合と役割分担がはっきりしてきているんですナ。
ら抜きによる可能形
上一段・下一段・カ変 | 受身・尊敬・自発(助動詞「られる」) | 可能(ら抜き) |
見る | 見られる | 見れる |
食べる | 食べられる | 食べれる |
考える | 考えられる | 考えれる |
来る | 来られる | 来れる |
助動詞「れる・られる」は、もともと「受身・尊敬・可能・自発」と一人四役で、まぁちょっと荷が重すぎるんでしょう。
(この「ら抜き」言葉は、語り出すと夜が明けちまうので、まぁ今回はここらでやめておきましょう。また次の機会にでも。)
自発の自動詞
さて。ここでようやく本題。
「置ける」(下一段)は今では、「置く」(五段)の可能形として使われるようになりました。
しかし、実は、下一段動詞の「置ける」という動詞は、可能の意味として使われる前から存在していたんですナ。もとの下一段動詞の「置ける」が、可能の意味に取って代われれて、ついには使われなくなってしまったてなわけで。
じゃぁ元の下一段動詞の「置ける」ってなんだってぇいうと。。。実は、「自発の自動詞」ってぇいう輩で。
いくつかの動詞には、他動詞と自動詞が組になっているものがあるんですナ。
例えば。。。
消す(他動詞) 消える(自動詞)
壊す(他動詞) 壊れる(自動詞)
と、こんな具合。
他動詞は、「(誰か)が閉める」「(誰か)が消す」「(誰か)が壊す」といったように、その行為の主体(動作主)が存在します。
一方の自動詞は、「(自然と勝手に)閉まる」「(自然と勝手に)消える」「(自然と勝手に)壊れる」ってな具合で、動作主が不在で、自然と勝手にその動作が起きる、ということを表します。
自発とは、ものごとが自然と起きる、という意味ですナ。
これが「自発の自動詞」ってやつの正体で。
で。
この「置ける」は。。。
ってなかんじで、「置く」と組になっている「自発の自動詞」なんですナ。
「置く」の自発形だぁ?扉が勝手に「閉まる」、火が勝手に「消える」ってなことがあっても、モノが自然と勝手に「置く」なんてことがあるかい!じゃなにかい、急須に足でも生えて勝手にその場に「置ける」なんてことが起こるってぇのかい。そんなことは天地がひっくり返ってもありゃしめぇ。。。て。
まぁまぁ、そんな焦りなさるな。
「置く」の自発形は、助動詞の「れる・られる」を使って、今でも「置かれる」として使うでしょう。
例えばですな。
・重きを置かれる。
・重点が置かれる。
どうです?「置く」の自発の意味でしょう。
この「置く」の自発形が、昔は「置ける」だったわけです。それが、今では、「置ける」は可能の意味に取って代わられ、代わりに「置く」の自発形やその他、受身や尊敬は、助動詞「れる」を使った「置かれる」になったってぇワケです。
つまり。。。
「気が置ける」
というのは、「気がそこに自然と置かれる」すなわち、気、つまり、配慮や気遣いですナ、それが自然とそこに生じるって意味です。
「気が置ける」が、「配慮や気遣いが生じる、要る」という意味ですから、当然、その否定形は、「気が置けない」つまり、「配慮や気遣いが生じない、要らない」という意味になるのです。
自発の自動詞を使った表現は他にもあります。
・腰が引ける。
・お里が知れる。
・不思議に思える。
・気が揉める。
「焼ける」「引ける」「知れる」等々。。。これらの動詞は、今では、可能の意味で使われることがもっぱらですが、上の例文では、自発の自動詞の意味が残った使い方がされていますナ。まぁしかし、どれも少し古い感じのする慣用表現でしょう。
「気が置ける」という表現は、今では使われなくなりましたが、一方でなぜか、その否定形は、時々使われたりします。
・気の置けない仲。
・気が置けない仲間。
といった調子。
これは、少し古い小説、夏目漱石や芥川龍之介なんかを読むと、しばしば出てくる表現だからでしょう。
昔の人は、こういった「自発」の表現をよく使ったんですナ。