(水野年方『大日本帝国万々歳 成歓衝撃我軍大勝之図』明治27年)
外交の手段としての戦争、倫理から評価される戦争
日本の近代化の歴史は、同時に戦争の歴史でもある。日本は近代国家として台頭し、西欧列強による帝国主義的な国際秩序に参入していく中で、さまざまな戦争に関わっていった。
戦争とは、通常の外交手段が破綻した末に生じる、極限的な状況である。外交的な手段によって国家の意志を実現できなくなったとき、国家はしばしば戦争という最終手段に訴える。戦争に際しては、それまで外交によって築かれてきた条約や国際法など、国家が順守すべき規範が無視されたり、破棄されたりすることがある。戦争においては、国際関係や倫理よりも国家の意志が優先されるためである。言い換えれば、それは国家のエゴがむき出しになる状況だ。
戦争とは、国家の意志をいかなる手段を用いてでも貫徹しようとする行為であり、そのための手段であると言える。
しかし、国家の行動は第三国や後世の人々によって厳しく評価される。条約や国際法を無視した行動、あるいは必然性や正当性を欠いた戦争を繰り返すことは、戦後の交渉や国際関係における立場を著しく不利にする要因となる。
ここで戦争に関する倫理の問題が問われる。たとえ戦争を純粋に外交の延長として捉えたとしても、倫理的な問題から完全に逃れることはできない。
戦争においては常に、その「必然性」と「正当性(大義)」が問われているのである。
日本の現代史における戦争は、大国間の思惑に翻弄され、条約や同盟関係が複雑に絡み合う中で、その必然性や大義が曖昧なまま進行していった。
第一次世界大戦までは、戦争は正当な国家の権利であり、外交の一手段として認識されていた。しかし1920年代以降、戦争の評価は主に倫理的な側面から問われるようになっていった。第一次世界大戦という未曽有の破壊と殺戮は、戦争観に大きな変化をもたらしたのである。
日本は、戦争において倫理や正当性が問われるようになったこの時代の変化に十分に対応できず、1930年代以降も自己防衛という名目のもとで戦争を繰り返した。日本の戦争にも「大義」は存在していたが、それはしばしば拡大解釈され、むしろ侵略行為の正当化に利用されることとなった。国際社会における戦争観が変化したにもかかわらず、大義や正当性が曖昧なままであったことが、日本の過去の戦争の評価をいっそう難しくしている。
では、日本の戦争はどのように評価されるべきだろうか。
そのためには、当時の日本の立場をより明確にする必要がある。日本の戦争前後における国際関係と外交状況について、最低限押さえておくべき要点を整理し、以下に素描してみたい。日本の立ち位置と、それを取り巻く状況が明らかになれば、日本の戦争に対する評価もおのずと見えてくるだろう。
東アジアへの列強進出 – 帝国主義時代の始まり
19世紀後半、ヨーロッパ列強は帝国主義の時代を迎えた。植民地の獲得とその経営は、資本主義の発展や経済恐慌の回避のための正当な権利とされ、国家が生き残るための当然の手段でもあった。そのため、列強による植民地獲得競争は熾烈を極め、全世界へと拡大していった。
東アジアへの列強の進出は、すでに19世紀前半から始まっていた。
1840年、イギリスは清に対して市場の開放と輸入超過の解消を目的にアヘン戦争を引き起こした。戦争は1842年にイギリスの勝利で終結し、南京条約が締結され、清は香港島を割譲した。さらに1856年、外国人排斥事件をきっかけにアロー戦争が勃発。この戦争でも清は敗北し、1860年の北京条約により、香港島対岸の九龍半島をイギリスに割譲することとなった。
清が列強との戦争や太平天国の乱(1851年)などで混乱している間に、北からはロシアが進出。1858年には、アロー戦争中の清に圧力をかけてアイグン条約を結び、黒竜江以北およびウラジオストクを含む沿海州をロシアに割譲させた。
ビルマは1824年から1886年間の3次にわたるイギリスとの戦争の結果、イギリスの植民地としてインド帝国に編入された。他の東南アジア地域へは、フランスが進出。1858年のインドシナ出兵を皮切りにベトナム、カンボジアを保護国化。1884年清仏戦争により、宗主国の清からベトナム保護国化を承認させ、1887年、フランス領インドシナ連邦を形成。1899年にはラオスも編入した。
日本はアジアの惨状、特にアヘン戦争の結果を目の当たりにして危機感を募らせ、明治維新を断行した。以降、近代化政策を採り、富国強兵を進める。日本が植民地化されないためには、自ら植民地の獲得、経営を行い、列強に伍するだけの強国になるほかない。それが明治日本の決断だった。
明治維新を遂げたばかりの日本にとって、李氏朝鮮は、清に残された数少ない属国だった。日本の進出は朝鮮以外の選択はなかった。
日清戦争
1894年、朝鮮半島で東学党の乱がおこると日本は在留邦人保護の名目で出兵し、宗主国清の軍隊と漢城(ソウル)近郊で対峙することになった。騒乱が収まると日本は、大院君を擁立して朝鮮に新政権を樹立、朝鮮内にいる清国軍の撤兵を日本に委ねるという命令を取り付けた。対清開戦の大義名分を手に入れた日本軍は、1894年7月、清の軍隊へ攻撃を開始。翌8月、清国に宣戦布告し、日清戦争が勃発した。
1895年、日清講和条約(下関条約)により戦争は終結。日本は清国から李氏朝鮮の独立を認めさせ、台湾及び、旅順、大連を含む遼東半島を割譲、2億両の賠償金を課した。
だが、下関条約の6日後には、この戦後処理にロシアが反対を示し、猛烈に干渉を行ってきた。ロシアは、フランスとドイツの同調を取り付けたうえで遼東半島の返還を要求。この三国干渉により日本は遼東半島を手放すことになった。遼東半島の旅順は大軍港であり、南満州、朝鮮の軍事的要であった。このときから日露関係は極東の権益をめぐって対立を深めていく。
日露戦争
1898年、ロシアは清から遼東半島を租借し、旅順および大連に大要塞の建設を開始した。さらに、1900年に清で反キリスト教的な排外運動である義和団事件が勃発した際、列強八カ国が北京や天津で鎮圧に当たっている間に、ロシアは満州全土を一挙に占領し、加えて朝鮮にも武装兵を上陸させた。ロシアは満州の植民地化を既成事実化しようとしたが、日米英の反対によりその試みは頓挫した。
日本はロシアの侵攻に対抗するため、軍備の近代化を進めると同時に、外交面では1902年に日英同盟を締結し、ロシアを牽制した。イギリスは当時、ボーア戦争に約30万人の兵を派遣しており、極東に戦力を投入する余裕がなかったため、ロシア牽制の手段として日本との同盟を選んだ。これは当時の日本にとって数少ない外交上の成功であり、以後約20年間、両国はこの同盟から大きな恩恵を受けることになる。
ロシアは満州を占領したまま、国際公約に基づく撤兵にも応じず、国境の要所に砲台を築くなど、朝鮮侵略の準備を進めていた。満州および大韓帝国に関するロシアとの交渉が暗礁に乗り上げた結果、1904年、日本はロシアに対して宣戦を布告した。
1905年、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、ポーツマス条約が締結された。アメリカは中国進出を視野に入れ、ロシアと日本の間に適度な勢力均衡を望んでいた。そのため、いずれか一方の一方的な勝利を防ぐべく、早期に仲介を行い、戦争終結に導いた。
この条約により、ロシアの満州からの撤退、韓国への不干渉、南樺太の日本への割譲、遼東半島の租借権および東清鉄道の日本への譲渡が決定された。鉄道の譲渡には、沿線の炭鉱採掘権や森林伐採権、付属地の利用権も含まれていた。日本はこれらの開発を国策会社に委ね、イギリスの東インド会社を模範として、南満州鉄道株式会社を設立した。
一方、日本とロシアはその後4度にわたり日露秘密協約を締結し、朝鮮および南満州における日本の特殊権益と、外蒙古および北満州におけるロシアの特殊権益を相互に承認した。
日本は1910年には大韓帝国を併合し、1915年には第一次世界大戦中に対華21カ条の要求を行った。これにより朝鮮の完全な植民地化と、南満州における権益の独占を確固たるものとした。
日本は日清戦争、日露戦争を戦い抜き、さらに第一次世界大戦を経て、ようやくヨーロッパ諸国と同様に植民地を経営する国家となり、列強と肩を並べる国際的地位を獲得した。1911年には小村寿太郎外相の尽力により日米通商航海条約が締結され、関税自主権の回復に成功。これを契機として、英・独・仏・伊との条約改正も進展し、明治維新以来の外交課題であった不平等条約の改正は、ほぼ達成された。
国民の間にも、日本が「一等国」となったという実感が広く共有されるようになっていた。
日清・日露戦争までの日本の行動は、国際的な非難を招くことはほとんどなかった。もちろん植民地支配に対する現地の反発は存在したが、植民地の獲得と経営自体は、当時の国際的通念においては国家の正当な権利とされていたのである。
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