中国反日教育の歴史

 1972年、日中国交正常化が実現。以降、日中両国は、政治上は良好な関係を維持してきた。
 中国国民の間にまだ戦争の記憶は生々しく残っていた時代だが、歴史問題が政治上、外交上の問題となることはほとんどなかった。

 だが、現在、中国では、政府の政策として、公教育の場で反日教育が行われている。反日教育が始まって以降、国民の間の反日感情は再燃し、歴史問題が日中関係に暗い影を落とし続けている。

 中国の反日教育は、政府の政策として行われている。そのため、その時々の政権の意向で、反日教育の内実が大きく変化する。良くも悪くも、中国は政治第一主義の国なのだ。
 政権によって、中国の反日教育がどのように変遷したのか、その歴史を辿ってみたい。

中国反日政策への転換

 明確な形で「反日教育」が行われるようになったのは、天安門事件以降。

 天安門事件―――
 1989年に起きた民主化運動の弾圧事件だ。
 ソ連では、1985年に就任したゴルバチョフ書記長がペレストロイカを提言して、民主化と自由化のための改革を実施。1986年には、中国共産党の総書記、胡耀邦がこれに呼応して、自由化への政治改革へと舵を切った。
 しかし、国家主席である鄧小平を中心とた保守派の反発にあい、胡耀邦は失脚。軟禁状態のまま、1989年に急死してしまった。
 この事態を受けて、学生を中心とした民主化運動が拡大。ゴルバチョフの訪中に合わせて、民主化を求める学生団体が天安門広場に集まりデモを行った。ゴルバチョフの帰朝後、鄧小平は厳戒令を発令。人民解放軍によって、デモ隊を武力弾圧した。
 この際、鄧小平は、民主化改革路線の党幹部をすべて失脚させ、江沢民を党総書記に就任させた。

 中国共産党はこの事件により思想教育の重要性を認識。徹底した愛国教育と中国共産党への忠誠心を涵養するための思想教育を実施していくことになる。

江沢民政権による反日教育の始まり

 愛国教育を推進したのは、鄧小平の引退後、1993年に中国国家主席に就任した江沢民だ。
 1994年、「愛国主義教育実施要綱」を制定。中国各地に戦争犠牲者の慰霊碑や記念館を整備して、愛国主義教育基地に指定。1995年の「抗日戦争勝利50周年」に向けて、愛国教育、反日教育の徹底を図った。

 1998年11月には、中国国家主席としては、史上初めて日本を訪問。小渕恵三首相との首脳会談で、日本の歴史教育を激しく非難し、過去の侵略の歴史に対して謝罪を要求した。江沢民は、この会談の際に発表される予定の日中共同宣言にも過去の歴史に関して謝罪を盛り込むよう再三にわたり要求した。
 1998年10月に小渕首相は、金大中大統領が訪日した際に発表した日韓共同宣言において、過去の侵略行為を謝罪を明記していた。江沢民は、今回の日中共同宣言にも韓国と同様の内容を明記することを要求していたが、日本政府は、1972年の日中共同声明ですでに謝罪内容を明記していることを理由に拒否。

 このような日中首脳会談の経緯と江沢民によるその他さまざまな対日政策によって、中国国民の反日感情は高まっていった。

反日暴動の衝撃

 2002年の共産党大会で、江沢民の後を継いで、党総書記、国家主席に胡錦涛が就任。しかし、江沢民は国家主席を退いた後も党幹部を自らの上海派閥で固め、党中央軍事委員会主席の地位に留まった。実質的な権力は、江沢民が握ったままとなり、以降、胡錦涛と上海派閥(上海幇)との主導権争いが行われることになる。

 江沢民の傀儡のまま権力基盤が固まらない胡錦涛政権の下で、中国共産党を揺るがす事件が起きる。
 それが、2005年に中国各地で起きた大規模な反日暴動だ。
 背景には、2001年に就任した小泉純一郎首相による靖国神社参拝があった。中国の反日教育が始まって、おおよそ10年が経過し、歴史問題に非常に敏感な世論が生まれてきていることを示した事件だったと言える。(大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が靖国神社へ首相就任中に参拝しているが当時は問題とならなかった。)

 多くの日本人がこの暴動に衝撃を受けたが、しかし、この事態に一番、衝撃を受けたのは中国共産党の方だった。
 広州、深圳、成都、北京、上海、香港、瀋陽といった中国主要都市で起きた反日抗議デモは、一部が暴徒化し、武装警官が鎮圧に乗り出す事態に発展した。

 この暴動は、民衆が力をつけ始めたことを共産党に見せつける結果にもなった。中国が経済成長を続けるにつれて、国民は豊かになり、政治的な影響力を持つようになる。それは当然、参政権や発言権の要求につながっていく。
 愛国無罪を掲げて、当初傍観する気でいた中国当局は、統制の取れなくなる民衆の抗議活動に次第に警戒感を抱くようになった。反日運動の陰に隠れた政府批判も起きていた。

 この民衆の暴動を一番恐れたのは、結局、中国共産党だった。そこにちょうど、政権内で政治政変が起きる。

胡錦涛政権による修正

 胡錦濤国家主席は就任以降も、江沢民の上海閥に実権を取られていた。しかし、2006年9月に上海閥の中国共産党幹部が多数、汚職の容疑で逮捕された。警察や検察は、中国共産党員への捜査権限がなく、共産党幹部の汚職は野放しの状態だった。今回は、共産党内部の中央規律委員会の捜査によって、上海閥の党幹部が一斉逮捕された。
 これにより胡錦涛は、党内部での権力基盤を固めることに成功し、独自政策を取れるようになった。

 胡錦涛政権は、反日暴動の結果を受けて、反日政策を修正した。報道統制も行われて、過度な反日的論調は抑制され、日中友好が唱えられ始めた。

 この方針転換には、江沢民と胡錦涛との世代間差も影響しているとみられる。江沢民は、日中戦争で親族を殺されているが、胡錦涛にはそのような背景はない。

 2006年安倍政権が発足し、安倍首相が訪中すると、一気に日中友好へと政策転換が図られていった。