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廃品回収車の騒音は誰の責任か──利用者が問われる公共意識

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騒音公害と公共意識──利用者にも問われる責任

 公共の生活環境は、制度や規制だけでなく、地域住民一人ひとりの意識と行動によって維持されている。
 だが、拡声機を用いた廃品回収車などによる騒音問題は、都市部を中心に何年も放置され続けている。長年にわたってこうした行為が常態化している背景には、業者側の倫理意識の欠如とともに、住民側の公共意識の希薄さがあることを見過ごすべきではない。

 本来、拡声機での宣伝活動は、日常生活の静穏を著しく損なう「騒音公害」として捉えられるべきものだ。ところが日本社会では、こうした騒音に対する感度が極めて低い。子どもの頃から日常的にこうした音に接し、それを「町の風景」として受容してしまっている。近隣住民の生活音には敏感でありながら、公共空間における騒音には寛容であるという矛盾が、社会の側に深く根を下ろしている。

騒音を生む無自覚な需要

 廃品回収車を「便利だから」と安易に利用する市民の存在も、問題を複雑にしている。
 しかし、利用者がいるという事実が、迷惑を被っている住民の苦情を正当化できる理由にはならない。ましてや、廃品回収という行為自体が高度な公共性を帯びたものとは言いがたい。これは明らかに、一部の経済的利益が、生活環境という公共の利益を損なっている事例である。

 そもそも、廃品の処理は自治体の制度のもとに行われるべきであり、粗大ごみの排出も、物を消費・使用した個人が責任をもって対応すべき課題である。インターネットや電話帳などを使えば、信頼できる業者を探す手段は豊富に存在する。わざわざ違法またはグレーゾーンの営業に依存する理由はない。

 忘れてはならないのは、騒音営業を成立させているのは、利用者の存在であるという点だ。騒音に悩まされている他者の存在に無自覚なまま利便性を優先するその姿勢は、加害構造の一端を担っていると言える。公共空間とは、すべての人が快適に過ごせるよう相互に配慮しながら利用すべき場であり、その認識を欠いたままでは、社会の成熟は望めない。

“民度”が問われる時代

 今こそ問われるべきは、市民としての「公共性への感度」である。

 「公共の場」とは、単に市区町村が管理している空間という意味ではなく、すべての人が快適に利用できるように、個々の住民が互いに配慮しあうべき場所のことだ
 何が許され、何が慎むべき行為なのかを判断する力は、業者だけでなく利用者にも同様に求められる。これは単なるモラルの問題ではなく、生活環境を守るうえでの基本的な責任である。

 どのような商売も需要のないところには成立しない。したがって、この種の騒音公害を根本的に解決する最も確実な方法は、「利用者をなくすこと」に尽きる。私たち一人ひとりが自らの行動を見直し、他者の生活と公共空間への配慮を取り戻すことこそが、静かで快適な社会を築く第一歩となる。

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