東西貿易路の覇権
近代ヨーロッパ諸国の興亡は、世界貿易航路の支配権をいかに獲得するかということにかかっていました。
11世紀から12世紀頃にジェノバ、ヴェネツィアなどのイタリア都市が東方貿易(レバント貿易)に従事。
東西交易の覇権は、15世紀末以降、新航路を開拓したスペイン、ポルトガルに取って代わられました。
しかし、その覇権も17世紀には、イギリスとオランダへと移ります。
イギリスが海洋覇権を握った直接的きっかけは、1588年のアルマダ海戦です。
イギリスのエリザベス1世が、イギリス国教会を擁して、カトリックのスペイン王フェリペ2世と対立。イギリス艦隊がスペインの無敵艦隊をアルマダで破って、イギリスの覇権が決定的となりました。
その後、イギリスは1600年に東インド会社を設立、本格的な東西貿易に乗り出します。次いで、スペインから独立を果たしたオランダも1602年に東インド会社を設立。イギリスと東西交易の覇権を争うことになります。
しかし、オランダは17世紀後半から18世紀にかけての英蘭戦争に敗れ、海上交易の優位を失います。
こうして、大英帝国による世界覇権が確立していきます。
しかし、イギリスの覇権を決定づけたのは、このようなスペインやオランダとの争いに勝利したからだけではありません。
イギリスの植民地経営
イギリスが19世紀に世界の交易で覇権を獲得することができた要因には、その植民地経営の手法があげられます。
イギリスの植民地経営は、それ以前のスペイン、ポルトガルによる植民地経営とは、全く性格の異なるものでした。
スペイン・ポルトガルの植民地経営は、原住民を虐殺して資源と領土を略奪、奴隷を移住させて、砂糖やコーヒーなど単一の商品作物を栽培する、という収奪的な手法でした。
一方のイギリスは、収奪した土地に、奴隷を移住させるところまでは同じですが、現地で大規模農場(プランテーション)を経営し、その利益で、産業育成政策を行った点が大きく違いました。
イギリスが、植民地で産業育成政策を行い、現地に自立した経済圏を作り上げていったことは、その後の世界経済に大きな影響を与えます。
イギリスの植民地からは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど、その後の経済大国が隆盛していったのです。
19世紀から20世紀初頭の大英帝国の覇権の背後にはこのような、より経済的、産業構造的な要因があったといえます。世界史の流れを長期的な観点から見ると、世界の歴史に大きな影響を与えるのは、一時的な政治的覇権ではなく、より効率的で競争優位な社会制度を作り上げることのできた国家(政治集団)の方であることが、非常に良く分かる事例だと言えます。