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就活はなぜ問題なのか──変わらない制度が生む労働環境の画一化 – その歴史と背景

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就活はなぜ生まれたか? – その歴史と背景

 日本の「就活」という制度は、多様な働き方を阻む最大の要因のひとつである。制度としての就活は、時代の変化に逆行しながらも依然として変わることなく、画一的な働き方しか許容しない労働環境を作り出している。

 現在、日本の経済環境や働き方をめぐる価値観は大きく変わりつつある。副業、フリーランス、転職の一般化など、雇用の多様化が進むなかで、「就活不要論」も少しずつ語られるようになってきた。
 では、就活の何が問題なのか──その成り立ちからあらためて考えてみたい。

就活の起源──高度経済成長期の産物

 就活は、高度経済成長期に成立した企業側の採用慣行から生まれた。

 当時、日本企業が求めていた人材は一貫して「社会経験のない新人」「高学歴」という属性に集中していた。とりわけ大企業では、求める人材像がほぼ共通していたため、大学新卒者の獲得競争が激化することになる。

 このような競争が背景にあり、企業はできる限り早い段階で優秀な学生を囲い込もうとし、採用活動の早期化が進んでいった。その結果、1952年には採用過熱を抑制するために、大学側の申し入れにより「就職協定」が結ばれた。
 この協定が、現在の「就活」の原型となる、新卒予定者に限定された、同時期一斉開始の就職活動を生み出すことになる。

 この就活の特徴は、以下の通りである:

  • 大学卒業予定者に限定
  • 同時期に一斉開始
  • 一括採用による画一的処理

 こうした就職活動の仕組みは、日本では当たり前のように受け入れられているが、世界的に見れば極めて特異な慣行である。

就活制度の前提──企業の終身雇用と人材育成責任

 この制度が前提としていたのは、企業が人材育成を一から行い、長期雇用でそのコストを回収するというモデルである。つまり、終身雇用・年功序列という高度経済成長期の経済状況と企業文化に支えられていたのだ。

 しかし現在、終身雇用はすでに形骸化し、若者の離職率も高まっている。企業が一人ひとりの人材育成に責任を持ち続けることは、コスト的にもリスク的にも非現実的になってきた。

 それにもかかわらず、就活の制度だけが旧来のまま残されている。企業側の採用方針や働き方の実態が変化している一方で、就職活動の形態にはほとんど変化が見られない。現在の就活制度はすでに時代との齟齬をきたしており、日本の働き方の多様化を妨げる要因となっている

学歴神話の誕生──採用基準の画一化とその背景

 日本の企業は、採用において個人の技能や専門知識、職務経験を重視しない。これは、採用後に人材を一から育成するという方針に基づいている。新人を自社内で教育・訓練し、将来的に戦力として育てていくという前提があるため、採用時点では実績よりも「将来性」や「順応性」といった潜在的な要素に期待して人を選ぶのだ。

 しかし、専門性や職務経験といった客観的な指標を用いない場合、企業が採用の際に判断材料とできるものは非常に限られる。そのため、最終的にもっともわかりやすく、かつ形式的な指標である「学歴」が採用基準として浮上することになる。

なぜ学歴が重視されたのか──「潜在能力」信仰の成立

 日本では、「学歴が高い=潜在能力が高い」という信仰が、ほとんど自明の前提として受け入れられている。たとえば、「いい学校を出ないと、いい会社に入れないよ」という言葉は、全国の学生が親戚から一度は聞かされているだろう。
 このような学歴信仰の根底には、「高学歴であれば企業に順応しやすい」という考え方がある。

 ただし、実際には学歴の高さが示しているのは、潜在能力そのものではなく「教育のしやすさ」である。学歴とは、企業の教育制度にスムーズに適応しやすいかどうかを測る、ある種の「適合性指標」にすぎない。

高度成長期の背景──「順応性」が求められた時代

 このような学歴偏重の採用基準が成立した背景には、高度経済成長期の労働需要がある。当時は、大量生産・大量消費の時代であり、社会全体が効率化とマニュアル化を追求していた。そして、日本経済が安定的に成長していた時代は、企業はこの「潜在能力の高さ」と「教育のしやすさ」の違いをほとんど意にかける必要がなかった。労働者に求められたのは創造性ではなく、与えられた答えを忠実にこなす「順応性」だったからだ。

 企業が求める人材像も、「自ら課題を発見し解決する人」ではなく、「与えられた課題を効率的に処理する人」。このような資質は、画一的な試験制度のなかで高い成績を収めた者、すなわち高学歴者が持つと見なされた。

学歴=教育のしやすさ=採用基準、という構図

 このように、学歴は「飲み込みの速さ」「要領の良さ」「長時間の訓練に耐えられる忍耐力」などを測る簡易な指標として機能していた。企業にとって学歴は、採用後に手間なく教育できるかを見極める最も効率的なツールだったのだ。

 結果として、学歴は企業の採用活動において最も重要で、かつ唯一の実質的な基準となっていった。この構図は、長く続く「学歴神話」の土台を築くことになる。

忠誠心を求める日本企業──帰属意識と人材教育の密接な関係

 日本企業にとって、社員の帰属心は人材教育における最重要課題のひとつであった。新入社員をゼロから育て上げる企業にとって、その投資分を回収するには、社員が長く会社に留まり、貢献し続けてくれることが前提となる。育てた人材に早々に退職されてしまっては、教育にかけた時間やコストが無駄になってしまうため、離職を防ぐための制度設計と文化的な仕組みが不可欠だった

 その一つが、長期的雇用の保障と、それを支える帰属心の涵養を目的とした企業内教育である。こうした観点から、企業は「教育のしやすさ」を採用基準の中心に据えた。
 そして、企業にとって最も教育しやすい人材とは、社会経験のない新卒学生だった。これは、アヒルの刷り込み現象にも似ている。最初に就職した会社を「親」とみなすような、社会的に「白紙」の若者こそが、忠誠心を育みやすく、長期雇用に最適な人材と考えられたのだ。

忠誠心=評価基準となる日本企業の構造

 このような構造の中で、日本企業は新入社員に対して単なる業務遂行能力だけでなく、会社への忠誠心そのものを期待するようになった。やがてその忠誠心は、単なる期待ではなく勤務評価にまで「昇華」されていく。
 つまり、仕事の成果以上に、会社への忠実さや所属意識が人事評価を左右する文化が根づいていったのである。

 これは企業側だけでなく、労働者側にとっても「当たり前」の価値観として共有されていた。日本の労働文化においては、成果よりも努力、個人の貢献よりも集団の調和が重視された。

成果よりも「努力」が評価される労働文化

 このような価値観の下では、成果は個人ではなく組織全体の協働によって生まれるものとされる。そのため、個人の成果ばかりを評価する制度は、組織の「和」を乱すものと見なされ、避けられる傾向にあった。

 こうして、日本企業では成果よりも「努力」を重視する文化が定着していった。「成果主義」ではなく「努力主義」。そこでは、たとえ結果が出なくても、長時間働き、会社に尽くした人が高く評価される。そしてこの価値観は、会社への忠誠心・帰属意識と極めて親和性が高かった

 つまり、「忠誠心があるから努力する」「努力するから評価される」という循環構造が、労働文化の深層に根づいていたのである。

若い世代へのメッセージ──時代は変わった

 学歴と忠誠心。
 これこそが、日本の「シューカツ」制度が生み出した二大神話だ。しかし、これらを支えていた終身雇用という基盤は、すでに崩れつつある
 日本は、かつて世界の工場として君臨していたが、その地位も今や他国に移り、大量生産を支える製造業中心の経済モデルも過去のものとなりつつある。

 今後は、マニュアルに忠実に従う能力よりも、新しい価値や仕組みを創造できる人材が求められるようになる。つまり、「効率的に与えられたことをこなす」人よりも、「何をすべきかを自ら考え、形にできる」人材が価値を持つ時代が訪れているのだ。

日本式雇用の崩壊

 学歴を最も重要な採用基準とし、新卒中心で採用する就活のあり方は、変化する社会のなかで、今後機能しなくなっていくことは間違いないだろう。

 新卒採用、学歴重視、社内人材育成、年功序列、終身雇用──。
これらはすべて、経済が安定的に成長し、企業が持続的に発展していた時代に成立した制度であり、その当時は一定の効果を発揮していた。

 しかし、経済が停滞し、将来の見通しが不透明な現代においては、これらの仕組みの歯車が少しずつずれ始め、互に齟齬をきたすようになっている。

 変化の激しい時代、予測困難な経済環境の中で本当に求められるのは、創造性を持ち、自ら課題を発見し、主体的に解決へ導ける力を備えた人材である。

就活に臨む学生たちへ

 これからの日本において、就職のあり方も必ず変化していく。だからこそ、これからシューカツに挑む学生たちは、今の制度が日本特有の、極めて特殊な文化的装置であることを認識しておくべきだ。
 そのうえで、自分自身にとってどのような働き方が最もふさわしいのか、「就職」という儀式に迎合するだけでなく、自らの価値観で判断する姿勢が問われている。

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