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西武百貨店と都市開発のゆくえ – 辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(2008)

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辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(2008)

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消費文化とは何だったのか?

 辻井喬こと堤清二と社会学者・上野千鶴子による対談本。
 1980年代の消費文化を牽引したセゾングループ、特に西武百貨店を軸とする文化・都市政策の試みについて。

 2008年の出版で、この対談が行われた年は、長引くデフレ経済で景気はどん底、金融危機のあおりで株価もどん底、という消費文化の低迷が濃厚な時期。そこで、かつての消費文化を総括し、今後の「消費なき時代」における文化や都市のあり方を問う、といった意図で企画されたんじゃないかな、と思う。

 しかし、そーいった「ポスト消費社会」というような御大層な議論にはなかなか及ばず、お年寄りお二人の思い出話に終始している感は否めない。

 まぁ、戦後の消費文化や世相の移り変わりを垣間見れて、読んでいてそれなりに面白かった。

渋谷の街を変えた西武百貨店の出店

 西武百貨店が渋谷に開店したのは1968年。
 1964年の東京オリンピックを契機にテレビが一般家庭に普及し、映画産業は次第に衰退していった。西武の渋谷出店は、そうした時代の流れの中で、閉館した映画館の跡地を活用する形で実現された。

 当時の渋谷は、円山町が風俗街で、井の頭通りや公園通りには映画館や「連れ込み宿」が立ち並ぶ、やや薄暗い街だったという。だが、西武の出店をきっかけに、宇田川町周辺には喫茶店やブティック、レストランが次々に開店し、風俗業態の店舗が姿を消していった。

 1973年にはパルコがオープンし、そのすぐ先の代々木公園裏にはNHKが移転。渋谷の街は「若者文化の発信地」へと変貌していく。この変化の先導者が、西武百貨店であり、辻井氏であったことは間違いない。

 辻井氏自身も、当時は百貨店が「街づくり」の担い手となる、デベロッパー的な役割を果たした貴重な時期だったと振り返っている。

文化事業と「街づくり」の理想と限界

 その後、西武グループは文化事業にも注力する。1975年には西武美術館、1979年には池袋店内に小劇場「スタジオ200」を開設。さらに、北海道や三重・志摩でのリゾート開発にも乗り出した。

 こうした試みは、辻井氏の文化人としての気質を色濃く反映しており、経営者というより「趣味人」としての一面が前面に出ている。だが実際には、これらの文化事業や開発事業は、いずれも大きな成果を挙げるには至らず、結果的には失敗に終わったと評価されても仕方がない。

 本来、都市開発や文化政策は、明確な都市計画の下で、公的・民間の連携のもとに進められるべきものである。一民間企業が単独で担うには限界がある。辻井氏の「街づくり」は、個人の理想やビジョンに頼る側面が強く、戦略性や制度的裏付けに乏しかった。

 その象徴が、渋谷の再変化である。1980年代末以降、渋谷の街は再び風俗産業や猥雑な要素を取り戻し、「流行の発信地」としての性格も曖昧になっていく。これは、日本全体に都市計画の不在という構造的な問題があることの表れでもある。

百貨店のゆくえ

 1991年のバブル崩壊以降、流通革命が進み価格破壊が加速した。これにより、本格的なデフレ経済が始まり、内需拡大によって所得が増加するという成長時代は終焉を迎えた。結果として、かつて百貨店が牽引してきた消費文化も衰退の道をたどることになる。

 その後、百貨店は次第に貸店舗業の色彩が強まり、小売業の中心はコンビニエンスストアやディスカウントストアへと移っていった。家計の最終消費支出は、この対談が行われた2008年半ばから急激に減少し、2013年まで横ばいの低迷が続いた。2008年はまさに国内消費の「どん底」の始まりといえる。若者の「○○離れ」という言葉が頻繁に使われるようになったのも、この頃からだ。

 近年では、大規模な金融緩和政策の影響もあり、企業収益は回復基調にある。百貨店業界も高級路線に特化することで収益の改善が見られるが、これは国内消費の回復によるものではなく、インバウンド(訪日外国人旅行者)の増加が主な要因である。今や百貨店は、貸店舗業を中心とした不動産業的な性格を強めている。

 かつてのように、国内消費の増大が所得増加を通じて経済成長を牽引する時代は過ぎ去り、小売業界は「冬の時代」を迎えたと言える。
 「景気は回復したが、その実感はない」
 「企業の収益は増えたが、給与所得は伸びない」

 こうした状況こそが、ポスト消費社会の「ゆくえ」だったのかもしれない。

辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』(2008)

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