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表現力が衰退し、形骸化する日本語 – 加賀野井秀一『日本語の復権』

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加賀野井秀一『日本語の復権』(1999)

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中身のない言葉が溢れる日本語

 1999年刊行。
 日本語という視点から日本人の姿を考察する一冊。

 現代の日本社会には、意味の希薄な言葉が数多く存在している。

 定型的で形式的な挨拶文、コンビニなどで使われるマニュアル敬語、街中に流れる宣伝放送、駅やエスカレーターで繰り返される注意喚起のアナウンスなど──。
 これらの言葉は、一体誰に向けられているのか、あるいは本当に誰かに届くことを意図しているのか、はっきりとしないものも多い。

 都市空間には、こうした「中身の感じられない言葉」が無数に存在しており、その情報量は聴覚だけでなく視覚にも及んでいる。
 けばけばしいネオンやディスプレイ、隙間なく並ぶ看板や広告、歩道にはみ出して置かれる立て看板やのぼり旗。街のあちこちに言葉と情報が氾濫している。

 一方で、人と人とのあいだの直接的なコミュニケーションは意外なほど希薄だ。
店員の挨拶にも反応が少なく、すれ違いざまに肩が触れても無言。道を譲っても言葉は交わされず、沈黙のうちに相手の出方をうかがう──。
 顔を合わせても、表情の乏しい、言葉のないやりとりが多く見られる。

 都市空間は情報に満ち、時に騒々しいほどだが、その中で暮らす人々はどこか無口で静か。
 そうした対照的な光景が、現代の日本の街に広がっている。

 空疎で実質を伴わない表現が、現代社会にあふれるようになってきた。言葉は次第に形式だけが残り、本来の意味や役割──すなわちコミュニケーションの手段としての力──を失いつつある。
 こうした傾向が、日本語における言語文化の貧しさをもたらしているのではないか。
 著者はそのように問う。

 日本語の表現は、しばしば相手の「察する力」に強く依存しており、話し手の側が自らの意思を的確に伝えようとする努力を怠りがちになる。
 この構造が、話者の表現力の低下を招き、その結果として、紋切り型で画一的な言葉が街にあふれているのではないか──

 確かに日本語は、形式の洗練に重きが置かれる一方で、内容の明確さや論理性が軽視されがちな傾向がある。
 著者は、このような「形式主義」を見直し、日本人の対話力や表現力そのものを根本から問い直す必要があると考えている。

 本書は、日本語という言語のあり方を通して、日本人のコミュニケーション能力や思考の枠組みそのものを捉え直そうとする「日本語論」である。

日本語の表現能力

 著者は、日本人のコミュニケーションの特性を、「記号化」と「記号操作」という二つの軸をもとに考察している。

 「記号化」とは、個人が直接世界と関わり、自らの経験や思考を、自分の言葉で意味づけ、表現する行為を指す。これは、創造的な表現活動といえる。一方の「記号操作」とは、既に社会の中で意味が与えられている記号や文脈を理解し、それらをうまく使いこなす行為であり、応用的な表現と位置づけられる。

 前者は「説得の文化」に通じ、自分とは異なる考えを持つ相手に対して、どのように明確に意志や意図を伝えるかに重きが置かれる。そのためには論理性、言葉の正確な意味(デノテーション)、さらには冗長性すらも重要となる。
 後者は「察知の文化」として、相手の理解力に委ねる形で言葉の含意(コノテーション)を発展させ、文脈や暗黙の了解に基づく洗練を価値とする。ここでは論理や明示性がかえって敬遠されることがある。

 言うまでもなく、著者はこの二項対立を、西欧と日本の言語文化を比較する視点から提示している。前者は西欧的な言語観、後者は日本語に見られる特性と位置づけられる。

 日本では、「察する力」が文化的に重視され、それに伴って言語表現もコノテーションが豊かに発展してきた。しかしその結果、日本語はあいまいな表現が多くなり、相手に明確に意志を伝える努力が軽視される傾向が見られる。著者はこうした状態を、「甘やかされた言語」と評し、批判的に捉えている。

 表現が相手の察しに過度に依存することで、日本語における自己表現の力が弱まり、それに伴って「伝えようとする意志」自体も希薄になってきている。意図が明確でない、形式的な言葉が大量に使われるようになり、その多くが実際には届いていない。たとえば、街中に流れる宣伝広告や繰り返される注意喚起のアナウンス、誰も耳を傾けていない選挙カーの声など、一方的に投げかけられる言葉が日常の風景となっている。

 著者の指摘は非常に示唆に富む。ただし、留意すべき点もある。
 著者はこの問題を主に「日本語」の構造に起因するものとして論じているが、それは必ずしも言語自体の問題に限られるものではない。むしろ、日本人の「コミュニケーションのあり方」に関わる社会的・文化的な問題でもある。

 日本語の特性に焦点を当てたことで、議論がやや典型的な日本文化論の枠に収まりがちになっている印象もある。たとえば、著者は「察知の文化」として日本の芸術や文化の歴史を参照しているが、西欧においても象徴(アイコン)の使用は広く見られ、それは記号操作の洗練と見ることもできる。

 本来であれば、「日本人のコミュニケーションはどのようなものであるべきか」という視点から、言語と文化を整理していくべきだったかもしれない。歴史や文化的背景に比重が置かれたことで、言語的問題とコミュニケーションの問題が明確に切り分けられず、結果的に「日本文化批判」として読まれてしまう可能性がある。その点においては、やや説得力を損なっているようにも感じられる。

次回へ期待

 本書は、著者による初めての日本語論として位置づけられている。そのためか、論点が多岐にわたり、やや情報量が多すぎて整理しきれていない印象も受ける。
 同じテーマを扱った後の著作『日本語を叱る!』では、論点がより明確に整理され、日本語の抱える問題が分かりやすくまとめられており、読みやすさの点でも優れていると感じられる。

 とはいえ、本書における「日本語が甘やかされた状態にある」「その結果として表現力の低下が進んでいる」といった指摘は、非常に示唆に富んでいる。
 特に、日本語が相手の察する力に依存する構造を持つために、自らの意志を的確に伝える努力が軽視されがちである、という視点は鋭く、説得力がある。

 その結果として、表現の形式化や説明の省略(冗長性の欠如)が進み、言葉の中身が軽視されるようになっている。言葉の形式ばかりが先行し、内容の吟味や、言葉が持つ本来の力が見落とされてしまう──こうした傾向は、街にあふれる大量の宣伝放送や看板の氾濫といった「言葉の洪水」を生み出す一方で、対面でのコミュニケーションの希薄化や極端な無口さという現象とも結びついている。

 街では、スピーカーからのアナウンスや広告が絶えず流れ続ける一方で、すれ違う人々の間では挨拶すら交わされない。こうしたギャップは、海外での生活を経験した人であれば、誰しも一度は違和感を覚える、日本独特の風景だろう。本書はその不思議な状況を言語文化の観点から見事に描き出している。

 論点の着眼は興味深く、日本語やコミュニケーションに関心のある読者には一読の価値がある内容といえる。より整理された議論を求める方には、著者の後の著作『日本語を叱る!』を併せて読むことをおすすめしたい。

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