カナリアの歌から
カナリアは、毎年春になると新しい歌を歌うという。
多くの鳥は、一度覚えた鳴き方を一生変えることがない。しかし、カナリアは例外であり、春になるたびに新たな歌を覚え直す。
カナリアの歌は毎年変わり、前年と同じ歌を繰り返すことはない。このような他の鳥には見られない特異な性質が、カナリアを世界で最も愛される鳴鳥の一種たらしめている理由の一つであろう。鳴き声の美しさのみならず、その歌の多様性が、カナリアの魅力を一層高めている。
このカナリアのさえずりに注目した脳科学者がいる。米ロックフェラー大学の神経生理学者フェルナンド・ノッテボームである。
脳の機能および構造は、男性ホルモンや女性ホルモンの影響を受けて変化することが知られている。カナリアで歌を歌うのは雄のみであり、雌は歌わない。成鳥の雄カナリアでは、男性ホルモンの一種であるテストステロンの影響により、歌をつかさどる脳の領域が雌に比べて約2倍にまで肥大化するという。
この現象は春、新しい歌を覚える季節に限って見られる。一方、冬になるとテストステロンの分泌が減少し、該当する脳領域も縮小する。
すなわち、成鳥の雄カナリアは、毎年春になるとテストステロンの作用によって神経細胞群を新たに再生し、神経回路を再構築することで新しい歌を習得していることになる。ノッテボームは1984年、この神経新生に関する研究成果を発表した。
神経新生の発見を阻んだ「記憶」の問題
当時、「神経細胞は分裂・増殖しない」という説が神経科学の常識であった。
1928年、スペインの神経解剖学者サンティアゴ・カハールが「人間のように高度に発達した中枢神経系を持つ成体では、一度損傷を受けた中枢神経は回復しない」と結論づけたことに端を発する。この説は、以後およそ70年間にわたり、神経科学の分野で広く支持されてきた。
この間、魚類や鳥類において神経新生の可能性を示唆する研究報告がなかったわけではない。しかし、それらはこの強固な通説を覆すには至らなかった。その背景には、神経新生と記憶に関する根本的な問題があった。
神経新生が高等動物でも起こるという事実を受け入れがたくしていた要因は、「記憶の保持」にあった。
記憶は、分化した神経細胞が樹状突起を伸ばし、相互に接続されることで保持されるとされる。仮に神経細胞が分裂・再生し、神経回路が再構築されるとすれば、それまで保持されていた記憶のネットワークも再編成されてしまい、記憶の一貫性が損なわれる可能性がある。
実際、カナリアは新しい歌を覚えると、前年の歌は忘れてしまう。だが、人間のような高等動物は記憶を長期間保持し、それに基づいて高度な知的活動を行う。記憶の蓄積は人格形成の根幹をなし、人間の精神活動は記憶の一貫性に大きく依存している。
したがって、人間の脳で神経新生が起こっているとすれば、それは知的・精神的活動に重大な影響を与える可能性がある。記憶の一貫性が損なわれれば、少なくとも高度な思考活動は成り立たない。ゆえに、神経新生のような現象は、高等動物である人間の脳では起こらないというのが、当時の脳科学界の支配的な見解であった。
神経新生の証明へ
この「記憶との関係」という難題を突破口から解明し、神経新生の存在を明らかにしたのが、カナダの研究者ワイスとレイノルズである。
1992年、彼らは成体マウスの中枢神経系に、神経幹細胞が存在することを発見した。神経幹細胞とは、神経細胞やグリア細胞に分化する前の未分化な細胞であり、それが成体の中枢神経系にも多数存在していることが明らかになった。
この神経幹細胞が分裂・増殖し、既存の神経回路の中に取り込まれることで、新しい神経組織が形成される。すなわち、成体の中枢神経系でも、神経細胞そのものの分裂によるのではなく、神経幹細胞の増殖という別のプロセスによって神経新生が実現しているのである。
そして1998年、スウェーデンの研究者ピーター・エリクソンが、人間の成体においても神経新生が起こっていることを証明した。記憶をつかさどる「海馬」において、成人の脳でも新たな神経細胞が生まれていることが実験的に示されたのである。
脳は変わり続ける器官である
人間の脳における神経新生と脳の可塑性については、現在では多くの科学者が実在する現象として受け入れている。
確かに、年齢とともに脳細胞の数が減少することは事実である。ただし、その減少は無作為に起こるのではなく、使用されない神経細胞が優先的に「リストラ」されていく仕組みであると考えられている。
また、新たに生まれた神経細胞も、適切な刺激を受けてシナプスを介して神経回路に組み込まれなければ、機能を持たないまま消失する。つまり、脳の神経新生が意味を持つためには、継続的な刺激や学習、環境との関わりが不可欠である。
かつては「成人の脳は完成されたものであり、変化しない」というのが一般的な見解であった。しかし現代の研究は、成人の脳であっても環境要因や本人の意図的な訓練によって構造・機能ともに変化する、すなわち高い可塑性を備えていることを明らかにしている。
カナリアのさえずりに始まった神経新生の発見は、従来の「神経細胞は再生しない」という常識を覆した。人間の脳もまた、適切な刺激と環境によって神経細胞を新生し、神経回路を再構築する能力を備えていることが証明されている。
神経新生は、自動的に行われるものではない。新しく生まれた神経細胞を活かすには、学習や運動、社会的交流といった脳への継続的な刺激が不可欠である。つまり、脳は使えば使うほど変化し、成長する性質を持つ。
このことは、年齢に関係なく人間の知的・精神的成長が可能であることを示している。脳は、死ぬまで「学び」「変わり続ける」器官なのである。
参考
生田哲『よみがえる脳』(2010)
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