都市計画の不在
日本の都市はなぜ住みにくいのか———
都市計画がほとんど機能しておらず、都市の中核となるべき中心部──北米で言うところの「ダウンタウン」のような区域──が明確に定義されないまま、都市は無秩序に拡大を続けている。そのため、都市の構造には一貫性が欠けており、結果として公共交通網も混乱を極めている。鉄道、地下鉄、バスといった交通機関は、それぞれが独立して拡張されたために接続性が悪く、路線図を見ても目的地や都市の軸が把握しづらく、どこへ向かっているのか直感的には理解しにくい状態だ。
さらに、都市の区画整理には合理性が見られず、商業施設や住宅、さらには風俗営業施設までもが混在している。歴史的建造物の隣にパチンコ店が建てられるといった、都市景観への配慮を欠いた土地利用が、ほとんど規制されることなくまかり通っている。こうした無秩序な開発は、景観の連続性や文化的文脈を破壊し、街全体に一体感のなさと雑然とした印象を与えている。
加えて、街路の整備不良や統一感のない建築物の立ち並びは都市美を損ない、景観の醜悪さはもはや目を覆いたくなるレベルであり、改善の兆しすら見えない。こうした状況は、市民の生活環境に悪影響を与えるだけでなく、都市の魅力や競争力の低下にもつながりかねない深刻な問題だ。

歪んだ都市構造
日本の都市構造は、手遅れと言っても過言ではないほどに歪みきっている。
本来、都市計画とは公共性の高い長期的事業であり、政治と行政による強い指導力(リーダーシップ)が不可欠である。都市の未来を見据えた整然とした構想と、それを遂行するための一貫した政策が求められる分野だ。ところが現実には、政治の構想(ビジョン)は著しく欠如しており、議員たちは自らの選挙区への利益誘導に奔走し、都市全体の戦略は後回しにされている。その結果、都市政策は場当たり的で、統一された理念を持たない断片的な施策に終始している。
さらに、都市開発の多くを民間資本に依存しているため、収益性の高い地域に資源が集中し、都市全体を俯瞰した構造的な整備はおろそかにされている。これは、公共の使命を放棄したに等しく、都市空間を商品として切り売りするような姿勢に他ならない。
本来あるべき都市の姿とは、機能の中心を明確に定め、その周囲に生活圏や商業圏がバランスよく広がっていくものである。都市の中核となる地域に人々が自然に集まるように、公共交通機関は合理的かつ快適に整備されるべきであり、同時にその中心部には個人の車の流入を制限して、慢性的な交通渋滞や環境負荷を抑制する必要がある。都市を無秩序に拡大させるのではなく、人口規模100万〜300万程度をひとつの単位とし、その中で完結する都市構造を計画的に築いていくことが望ましい。
欧米の都市に目を向ければ、こうした都市計画の理念が実際の空間構成に反映されていることが分かる。機能ごとのゾーニング、緑地の確保、公共交通との接続性、都市美への配慮──いずれも明確な意図と長期的戦略に基づいて設計されている。それに対して、日本の都市づくりには理念も哲学も乏しく、結果として混乱と不快が支配する空間が生まれてしまっている。日本の都市機能が著しく劣化しているのは、偶然でも不可抗力でもなく、無策と怠慢の積み重ねによる必然的な帰結である。
たとえば、地方都市ですら、自家用車がなければ日常的な買い物や移動が困難な状況に陥っている。公共交通機関と都市機能が有機的に連動していないために、交通弱者──高齢者や若者、障害者など──にとっては深刻な生活の障壁となっている。
また、都市部における生活環境の劣悪さも深刻である。老朽化が進み、防災対策が遅れている密集住宅地。狭小で非効率な住宅に、高額な家賃を支払わされる居住者。長距離通勤・通学を強いられ、改善される気配のない通勤ラッシュ。都市空間における公園や緑地の圧倒的な不足。学校や公共施設、橋梁といった社会基盤の老朽化にも十分な予算と手当がなされていない。
このように、都市は本来、人々の暮らしを支え、豊かにするための器であるはずなのに、現代の日本ではむしろ生活の質を損なう障壁となってしまっている。都市とは何かという根源的な問いに立ち返り、ビジョンに基づいた再設計が求められている。

都市計画の不在———政治力の欠如が生んだ悲劇である。
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