早坂隆『日本の戦時下ジョーク集 太平洋戦争編』(2007)
過酷な時代の笑い
前作『満州事変・日中戦争編』の続編。今作は、昭和16年の太平洋戦争開戦から、昭和20年の終戦まで。
太平洋戦争という日本の有史以来、最も過酷だった時代だ。この時代を生きた人々の笑いとはどのようなものだったのだろうか。悲惨な時代だったからこそ、その時代の笑いを知ることにも意味があると思う。
本書は、戦時中に発行された雑誌のコラムや漫才師、落語家などの芸人の活動を中心に当時の笑いを紹介している。昭和16年から終戦の年までを1年ごとにまとめて取り上げている。
対米英戦の開戦直後には「言論出版集会結社等臨時取締法」が制定されている。政府に対する批判も戦況に対する報道も、大本営報道部の許可なく発表できなくなり、言論統制がより強化された。だが、政府と軍部による監視下で言論の活動が制限されながらも、「笑い」へ活動は続けられていた。戦時中においても庶民の笑いに対する需要は、途切れることは無かったことが窺われる。
情報は制限されていたのだろうが、それでも、開戦の昭和16年から日本軍が優勢であった17年までの間は、笑いにも時事ネタが多く取り上げられている。もちろん、政府批判や日本軍を揶揄するようなものは一切ないが、国際情勢をネタにする程度の余裕はまだあったのだろう。
だが、昭和18年、戦況が悪化し、戦時色が強くなると、時事ネタは影を潜めはじめ、庶民の生活の窮乏をネタにするものが増え始める。
庶民の本音
昭和18年頃からは、国民生活が目に見えて圧迫され始める。物資不足のため、インフレが進行し、物価が高騰。国民生活は配給が基本的な支えとなった。物資の強制供出令により、金属類の提出も求められた。
本書が紹介している「笑い」で最も興味深いのは、この年のものだ。庶民の生活が窮乏していく中で、人々の間に厭戦気分や政府批判の感情が高まっていただろうことは想像に難くない。その不満の捌け口として、政府や軍部を揶揄するさまざまな狂歌や替え歌が人々の口に登った。
『紀元二千六百年』の替え歌。まずは元の歌詞。
金鵄輝く日本の
栄あるある光 身にうけて
いまこそ祝え この朝
紀元は二千六百年
ああ一億の胸はなるそして替え歌。
金鵄あがって十五銭
栄ある光 三十銭
遥かに仰ぐ鵬翼は
二十五銭になりました
ああ 一億はみな困る
ここに出てくる「金鵄」「光」「鵬翼」のは、すべてタバコの銘柄。
次は、『愛国行進曲』の替え歌。
見よ 東条の禿頭
ハエがとまれば、ツルッと滑る
滑って止まって また滑る
軍歌の替え歌や軍人勅諭の言葉遊びが、誰が言い出したとも知らず、人々の間に流行し、現在でも記録として残っているのだ。
厭戦気分を謳った作詞者、作曲者不詳の俗謡も兵隊や工場労働者たちの間で口ずさまれていた。
さらに、全国で、反戦を訴えるビラや便所の落書きがあったことが報告されている。
全体主義の下で、思想犯を取り締まる特高(特別高等警察)が庶民の監視を強化していた時代においても、人々の口を完全にふさぐことはできなかったのだ。庶民の口に登った数々の狂歌や替え歌、俗謡は、庶民のささやかな抵抗だった。
噺家や落語家、漫才作家による「笑い」しか紹介していない本書で、唯一例外的に、庶民自身の手による「笑い」を紹介した章だ。生活の困窮も窮まった所で、庶民の本音がようやく垣間見えたといった感じだ。この章だけでも本書を読む価値があると思う。
しかし、それも昭和19年、総力戦の色合いが強くなり、軍隊や工場労働者として人々が動員され、集団疎開なども始まると、人々の口に登った笑いの記録も徐々に消えていく。
雑誌も多くが廃刊に追い込まれ、演劇場も次々へと休館になっていき、「プロ」の笑いも姿を消していった。こうした笑いの縮小は、終戦の昭和20年まで続いていく。
しかし、笑いが全て姿を消していったわけではない。人々は疎開先においても自前で演劇などを催して笑いの場を設けていた。意外としたたかな庶民の姿が窺える。
庶民の笑いを探る
前作でもそうだったが、ここで紹介されている「笑い」は、一部を除いて、ほとんどが公刊されたもの、あるいは、プロの芸人たちによるものだ。
『文藝春秋オール讀物号』『講談倶楽部』『週刊朝日』『富士』『キング』といった雑誌のコラムやお笑い記事からの抜粋で、紹介されているものは当時人気だった玉松ワカナ・玉松一郎、横山エンタツ・花菱アチャコ、五代目古今亭志ん生など漫才師や落語家の小噺。
これらは、庶民が生み出した笑いではなく、庶民が「消費」した笑いだ。
はっきり言って、戦時統制下のこういった「笑い」をいくら集めて紹介したところで、庶民の笑いの姿というのは見えてこないだろう。庶民は笑いとして何を語り、何を共有したのか?「世界のジョーク集」は、笑いから人々の姿が見えてきたからこそ面白かった。だが、残念なことに肝心の日本版では、それが見えてこない。
ここで紹介されているプロたちの笑いは、相も変わらずダジャレが多くて、あまり笑えるとは思えない。そのためか、印象に残るものも大してない。時事ネタを取り入れてあるものは、多少は読む価値もあるが、あとは、戦意高揚と英米に対する多少の皮肉を込めた程度のものだけ。 芸能面においても、大本営情報局推奨、陸軍、海軍推奨など看板を掲げ、東宝、松竹、吉本などことごとく「お上」の意向に沿った笑いしか提供しなかった。
今現在の笑いでさえ、メディアの中心となるものは、「内輪ネタ」「一発芸」「いじりネタ」といったものばかり。批判精神やひねりのある考えさせるような笑いは一向にない。今も昔もユーモアのセンスに欠けたものばかりなのだから、戦時統制下であればなおさらだ。本書を一通り読んで思うのは、昔から、日本の笑いというのは、極めて貧相だったのだなというのが率直な感想だ。
『ジョーク集』を読んでいたのに、冷めた笑いしか起こらない。読後は何となく暗澹とした気分になってしまった。日本の笑いってホントに貧相だな、と乾いた笑いしか起こらなかった。読んで出てきたのは、なんとも皮肉な笑いだった。