日本戦時下の笑い

早坂隆『日本の戦時下ジョーク集 満州事変・日中戦争編』(2007)

昭和日本の芸能史

 昭和初期から太平洋戦争の直前まで、いわゆる戦時下を生きた庶民の笑いを取り上げている。

 昭和は確かに政治、外交ともに激動の時代だったが、本書が扱っている範囲が太平洋戦争前年までなので、まだ人々の生活に余裕が感じられる。
 当時の芸能史を見ていくと、不穏な時代を生きていても、人々はしたたかで貪欲に「笑い」を消費し、さまざまな娯楽や遊興に耽る姿が浮かんでくる。
 満州事変以降から日中戦争までは、戦争による好景気で、都市部ではさまざまな消費文化が隆盛した時代だ。昭和7年にはラジオの販売台数が100万台を突破して、スポーツ中継や落語、漫才などの演芸が庶民の生活に浸透する。まだまだこの頃の世相は明るい。

 驚いたのは、漫才寄席の流行はこの頃に始まり、吉本がそれを牽引していたということだ。吉本は意外に古い会社で、その発祥が、明治45年、大阪天神に建てられた寄席だというのだから驚きだ。昭和7年には「吉本興業合名会社」に改組、当時の漫才寄席の流行を生み出した。
 現在の漫才の型になったとも言われるエンタツ・アチャコの漫才コンビ、漫才作家として名を馳せた秋田實などが吉本所属だった。
 昭和13年ごろには、ミスワカナ・玉松一郎の夫婦漫才が一世を風靡する。女性優位で男はボケ役という今の吉本でもおなじみの夫婦漫才のはしりになった。

 そのほかにもエノケンこと榎本健一、徳川夢声と古川ろっぱなど喜劇を中心とした演劇も人気を博した。映画も流行した時代で、外国映画の他に、これらの喜劇俳優たちによる喜劇映画も人気だった。

 落語もまた根強い人気を保っていた。だが、上方落語や江戸落語が、漫才ブームに押されるようになると、落語家たちの間で危機感のようなものが広がり、創作落語が試みられるようになる。柳家金語楼など、当時の流行や時事ネタを取り上げた落語家が登場し、人気を得るようになった。

笑いが影を潜めていく時代

 日中戦争が泥沼化し、昭和13年に国家総動員法が制定されると、急速に日本は戦時色を強めていく。この頃から、庶民の生活が目に見えて圧迫されてくる。それは、笑いの世界も同じだ。

 昭和15年2月には、「興行取締規制」が改正され、「臨検警察官吏」がいつでも脚本の内容を検査できるようになった。脚本に検閲がしばしば入ることになり、笑いは政府の統制のもとに置かれた。愛国心と道徳を涵養するための笑いが政府によって推奨されるという笑い話にもならない事態がこの頃から始まっていくのだ。

日本人にとっての「笑い」とは?

 今までも様々な『ジョーク集』を刊行してきた早坂氏だが、今作は明らかに趣向が違う。というよりも、それまでの海外の「笑い」から日本の「笑い」へと対象を変えたことで、趣向を変えざるを得なかったというべきかもしれない。「笑い」そのものに対する価値観が日本と海外では大きく違うからだ。

 今までの一連の作品では、庶民の口の端に登った出所も不明なジョークを扱っていた。それが今回は、漫才師や落語家など、芸人たちの笑いであって、要するに「プロ」の笑いだ。取り上げている「ジョーク」もすべて当時の雑誌やラジオからの引用である。庶民同士の間で語られたであろう笑いは、一切出てこない。

 そもそも海外で「Joke」と言われているものに相当するようなものを日本で記録として(文書でも口頭伝承でも)見つけ出すこと自体が困難だったんだろう。日本では互いに「Joke」を語り合う、笑いを共有し合うという文化、習慣そのものがない。笑いの主体になるのではなく、ひたすら受け身で、「消費」としての笑いしか出てこない。
 今でもテレビでは、お笑い番組花盛りだが、「お笑いブーム」と呼ばれるものは、それこそ本書で紹介されているように昭和初期から断続的に起きている。しかし、そのどれもが、興行師、今で言う芸能事務所、さらにマスメディアと広告代理店が仕掛けたものでしかない。

 よく海外で日本人はジョークのセンスがない、ユーモアを解さないと言われるが、日本人はそもそも笑いを語り合う場、共有し合う場自体を持っていないんじゃないだろうか。
 そのため、本書も庶民の笑いを紹介するというよりも、昭和の芸能史といった内容になっている。

 今までの『ジョーク集』が面白かったのは、笑いの中から庶民の本音が垣間見えていたからだ。政府などの権力者から隠れて、ひっそりと、時には大っぴらに語られたJokeは、庶民のしたたかさと批判精神が見て取れた。毒づいたり、皮肉ったり、ひねりのある笑いだった。
 この本で紹介されている「プロ」の笑いにはそういったものは一切見えてこない。しかも笑いの大半がただの駄洒落である。ひねりのある笑いがほとんどないのには驚きだ。戦時統制下になれば、社会批判や政治批判はすっかり鳴りを潜めて、政府の宣伝に堕している。

 庶民の笑いを知るというよりも、日本人にとっての笑いって何なのかを考えさせられてしまった本。