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クオリアとは何か? ― 意識の謎に迫る

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クオリアってなに?

 クオリアとは、私たちが心の中で感じ取ることができる質感や感覚のことを指します。たとえば、赤い花を見たときの「赤さ」や、美しい音楽を聴いたときの「響きの感じ」など、直接的に経験される心の中の質的な体験です。こうした体験が、脳内のシナプスの活動によって生じていることには疑いの余地がありません。あらゆる心の働きは、身体や脳の物理的なメカニズムに支えられており、そうした意味では、心の活動もニューロンの発火といった自然法則に従う物質的現象の一部と言えるでしょう。

 しかし、私たち一人ひとりが体験する意識の内容は、外部から客観的に観察することはできず、第一人称的な視点においてのみ現れています。このような主観的な体験、すなわち ― クオリアをいかにして神経活動が生み出すのかについては、未だに明確な説明が存在していません。

 心の中で生じるこうした体験は、「私」という主体の感覚を構成する重要な要素でもあります。そしてこの「私」は、自分の意志によって能動的に考え、感じ、行動しているように感じられます。ところが、もし意識の働きがすべて脳の物理的プロセスに還元されるとすれば、この「私」の能動性は一体どこから生まれてくるのでしょうか。つまり、私という意識の能動性は、脳の情報処理における結果なのでしょうか、それとも、原因なのでしょうか。クオリアの問題は、こうした「私」の意識の本質と深く関わっています。

脳科学における「ハード・プロブレム」

 私たちは、脳がニューロンを発火させ、情報を処理していることを科学的に観察できます。たとえば、「目から入った光が視覚野で処理される」「痛みの信号が脳に届く」といったことは、脳の物理的な動きとして説明できます。光の刺激が目に入り、視神経を通じて視覚野で処理される過程や、痛みの信号が脊髄を経由して大脳皮質に伝わる過程は、物理的・生理的メカニズムとして科学的に観察されています。

 しかし、そこには、「主観的な体験」の中身についての説明は全くありません。

 こうした過程をどれほど精緻に解明したとしても、そこから「赤が赤く見えるとはどういうことか」「痛みはどのように感じられるのか」といった主観的体験そのものの本質を導き出すことはできません。なぜなら、情報処理がどうして「何かを感じる」ことにつながるのかという問いは、残ってしまうからです。

 このように、情報の入力(感覚刺激)と出力(行動、発話など)は記述可能であっても、情報処理の過程がなぜ「意識的な体験」と結びつくのかは説明されていません。この説明の欠如こそが、デイヴィッド・チャーマーズが提起した「意識のハード・プロブレム」と呼ばれるものです。

 たとえば、コンピューターの電子回路を観察し、入力から出力までの情報処理の過程を明らかにしたとします。それは科学的に記述可能な知識です。しかし、そのなかに「コンピューターにとっての体験」についての説明はまったくありません。当然ですが、コンピューターに意識などないからです。そもそもコンピューターの意識を解明する必要性がないので、それを説明するための方法論も初めからありません。
 では、私たちの脳についてはどうでしょうか。脳科学は、脳の情報処理の過程を日々明らかにしています。しかし、それはコンピューターの電子回路を説明するのと同じで、観察される入力と出力を科学的に記述しているだけで、そこに「私たちにとっての体験」を説明するものはなにもありません。そもそもその方法論が欠けているのです。

 意識のハード・プロブレムは、脳の情報処理の解明が、「私たちにとっての体験」の説明に結びつかないことを指摘しています。このようにクオリアと脳神経科学の間には大きな溝が横たわっているのです。

 この問いは、さらに、意識が現在の物理法則だけでは記述しきれない可能性を示唆しています。もちろん、これは超自然的な存在や非物質的な要素を想定するという意味ではありませんが、従来の物理的記述ではカバーされない現象的側面を説明するための、新たな理論枠組みが必要とされていることは確かです。

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