読書案内
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(下巻)(1997)
個別の地域を検証する
下巻は、まず文字の発明、技術の受容、社会の集権化を概説した後に、上巻で示した仮説を敷衍して個別の地域への検証を行っている。
大胆な仮説を提示した上巻に比べると、やっぱり、地味な印象はぬぐえない。だが、ところどころ興味深い事実の指摘があったり、独特の視点からの解釈などがあって、読んでいて決して飽きさせない。
興味深かった点をいくつか拾い上げてみると。。。
・初期の文字はメソポタミア、エジプト、中国、メキシコなど農耕がが最初に始まった地域から生まれてきた。当初、文字は用途が限定されていて、表現できる幅も非常に狭かった。文字はあくまで支配の道具だった。
・技術に対する社会的受容性は、同じ地域において、常に同じだとは限らない。
・オーストラリアのアボリジニとニューギニア人との間の発展の差は、アボリジニが農耕に適さない広大な砂漠が広がるオーストラリア大陸で狩猟生活に適応したために起きた。
・地形状の障壁が比較的少なく、なだらかな平地が続く中国では、政治的な統一が早くに始まったが、そのために返って、権力の集中を招き、政治的な自由を制限し、内部での競争を阻害してしまった。
本書の題である「銃・病原菌・鉄」がどれほど歴史の発展に関わったのかということについては、著者の理論からすれば、それらが歴史上の主要な位置を占めている、というわけではないようだ。「銃・病原菌・鉄」は、あくまで、地理的な差によって現れる多種多様な要因のひとつという位置付けに終わっている。
銃・病原菌・鉄が、歴史的に果たした役割をそれぞれ主題に据えて、考察してもまた違った面白い著作ができたのではないか、とも思う。
日本に関する新章
原著では、日本に関する章が新しく追加されているが、本書では訳出されていない。原著で参照してみたが、日本人から見ればそれほど目新しいことは書かれていない。
ただ、日本がナショナリズムにこだわるがゆえに、歴史学的、考古学的な議論を受け入れられていない、といった著者の理解には疑問を感じる。日本人の起源が韓国、中国(特に雲南)、東南アジアといった広い地域に渡っていることは当然のことだろう。
浩瀚な書物だが、読んでいて最後まで飽きさせない面白さはある。だが、非西欧社会はなぜ技術の進歩が遅れたのか、産業の発展がなかったのか、政治的に支配される立場となったのか、という問題提起の仕方には最後まで納得がいかなかった。
地域の差を発展の差として理解することそのものが、そもそもの間違いなのではないだろうか。著者の議論は、一元論的な発展史観に陥っているように見える。また、人種的な要因に還元する議論を一見乗り越えているかのようで、そもそもの前提に差別的な違和感を覚える。
地域差を発展の差としてではなく、純粋に多様性の差として理解する発想が初めからあれば、本当の意味で人種的議論から離れた歴史を語ることができたのではないだろうか。
・原書(日本に関する章を追加した改訂版)